ツルのひとりごと

Vol.16 障害? 障がい? それとも・・・

9月初めに家の階段の最下段を踏み外して転倒し、右ひざを捻挫してしまった。治療も受けてそれほどひどいものではなかったが、それでも外出の時はひと月近くたった今もいろいろ不自由を感じている。特に駅の階段の昇降は、登りのエスカレーターはあっても、下りのない所が多く、しかも最寄りの地下鉄の駅は長い階段で、エレベーターは一基あるが、交差点を2度渡って100メートル以上余計に歩かなければならないので、近い階段を手すりにつかまってゆっくり降りていた。改めて公共施設のバリアフリー化の進んでいないことを身をもって感じた。

先日の日本体育学会第66回大会のシンポジウムで、パラリンピック・競泳選手の成田真由美さんが、JRの駅のホームでエレベーターが見つからないので、車椅子でどうしようかと止っていたら、日本人はどんどん行ってしまう中、外国人がお手伝いしましょうかと声をかけてくれたという話をして、東京オリ・パラに向けて施設面でのバリアフリー化を進めることと同時に、気遣いというかもっと心の中のバリアを取り除くことの大切さを語ってくれたが、確かにそうだなと実感した次第である。

ところで最近「障害者」と「障がい者」の二つの表記があるのに気づかれている方が多いのではないだろうか。YMFSもホームページなどで昨年から「障がい者」と表記している部分がある。調査研究などの事業で協力いただいている日本障害者スポーツ協会の表記の変更にあわせたものである。しかし文科省の法律では今でも「障害」を使っている。この問題は政府、官庁やマスコミなどでも様々な議論が行われているようであるが、まだ明確な結論は出されていないようである。確かに「害」という字には悪い意味しかないが、「障」も「差しさわり」「さえぎる」という意味だからこれもあまり適切な字ではないことになる。

私も以前から何か適切な用語はないのかと思っていたが、英語のdisabilityも適切な表現だとは思えない。さらに突き詰めれば、人間みんな全く障害のないというか不自由なことがないという人はいないし、誰にでもdisabilityな何かがあるといえるのだろう。それを社会の中で生活していく上での、あるいはスポーツをする上での平等さを保障するために、不自由さのどこかのレベルで区分を設けているということなのだろう。

この言葉上の問題よりも、区分が差別にならないようにする一人一人の心の持ち方がより重要なのだと思うのである。まず身の回りのことで、何か困っている、あるいは不自由をしている人を見かけたら、何かお手伝いしましょうかと声をかけることが、用語をあれこれ考えることよりずっと重要なのであろう。

(このコラムは、平成27年10月に発行したYMFSスポーツチャレンジ助成会報誌Do the Challenge Vol.14に掲載された内容を転載したものです。)

プロフィール
浅見 俊雄(あさみ としお)

埼玉県出身。東京大学卒業。東京大学名誉教授・日本体育大学名誉教授。元国立スポーツ科学センター(JISS)センター長、日本サッカー協会顧問、アジアサッカー連盟 規律委員会・審判委員会 副委員長など。元YMFS理事・審査委員長・調査研究担当理事