ツルのひとりごと

Vol.11 科学の発展とドーピング

もう10年以上前になるが、私が国立スポーツ科学センター(JISS)のセンター長をしていた時に、ジャック・ロゲIOC会長(当時)が来日され、JISSを視察に来られたことがあった。JISS内を案内した後に懇談の時間を持った時に、ロゲ会長からは素晴らしい施設で、きっとアテネオリンピックではJISSの成果が見られるであろうという言葉を頂いた。私はロゲ会長が就任時からドーピングに対しては強い姿勢で臨むといっておられたし、また人工的な低酸素環境での宿泊やトレーニングについて、医師でもある会長がドーピングにあたるのではないかという疑義を持っておられることを仄聞していた。JISS内には低酸素環境にできる施設があり、そこもご案内したので、それについてどう思っているのかを率直にお聞きしたのである。

会長は高地でのトレーニングは自然の環境の中でするのだから全く問題はないが、人工的にそうした環境を作ることについては疑義を持っていることは事実で、医学委員会にそのことを検討させている、と答えられた。それ以上突っ込んで聞くのはヤブヘビになるのではという懸念と、私の英語能力の不足もあってその話題はそれで終わった。

自然ならよいが人工のものはドーピングというのなら、シューズやウエアもそれによって競技力を高めようとする人工のものだから、人工のものはだめというのなら、古代オリンピックのように裸で裸足で土の上で競技するか、水泳やスキーのジャンプのように、ウエアの均一性を保つような規則が必要になるであろう。しかし、筋力を高めるタンパク同化ステロイドや赤血球を増加させるEPOのように、体内で自然に合成されるものはよいが、人工のものを体内に取り入れるのはドーピングであるというのが現在の世界ドーピング機構の考え方であり規定でもある。

現在多くの研究者が、運動によって体内に起こる変化を、ミクロのレベルで追究している。その目的は事実を明らかにすることとともに、疾病の予防や治療、健康の増進、そしてスポーツでの競技力の向上などに役立てたいという、いわば人間の幸福のためにという使命感からのものであろう。そして多くのアスリートたちも世界のトップでの活躍を夢見て、より早く、より高く、より強く、そしてより美しく競技することを目指している。

その過程で、科学者もアスリートも悪魔の魅力的なささやきを聞くことがあるのではないだろうか。研究者は新しく発見した事実をこう使えば競技力の向上に貢献できる、そしてアスリートは勝利への近道があるという悪魔のささやきが聞こえることがあるだろう。

その時には、ドーピングの規定に違反するのではないかと考えることも大切だが、それよりも、これは人間として、してよいことなのかどうかということを十分吟味してみることが求められるであろう。正しい道は決して平坦なものではないが、それを苦労して進む先にしか真の栄光はない。そしてその道は自分で選ぶものである。

なお、ロゲ会長の任期の間には、人工の低酸素環境がドーピング違反という規定にはならなかった。

(このコラムは、平成25年12月に発行したYMFSスポーツチャレンジ助成会報誌Do the Challenge Vol.9に掲載された内容を転載したものです。)

プロフィール
浅見 俊雄(あさみ としお)

埼玉県出身。東京大学卒業。東京大学名誉教授・日本体育大学名誉教授。元国立スポーツ科学センター(JISS)センター長、日本サッカー協会顧問、アジアサッカー連盟 規律委員会・審判委員会 副委員長など。元YMFS理事・審査委員長・調査研究担当理事