国立スポーツ科学センター(JISS)のセンター長をしていたときに、JISS のホームページに「ツルのひとこと」というコラムを書いていた。それを読んでくれていたヤマハ発動機スポーツ振興財団(YMFS)のスタッフの方が、これからのYMFSの事業を議論しているときに、このパンフレットにあのコラムを復活できないかという提案をされた。スタッフの何人かの方が読んでくださっていて、面白かったのでぜひというのである。おだてに弱い私は、つい気軽に引き受けてしまった次第である。
といっても登録商標ではないがまったく同じ名前ではとも思い、またあの頃「鶴の一声読んでいますよ」と間違えて覚えていた方にもよく会ったので、権威者の声ではないことをよりはっきりさせるために「ツルのひとりごと」というタイトルにさせていただいた。 毎回何かをテーマにして書いていくことになるが、第1回は「チャレンジ」を取り上げてみた。YMFS の事業の共通のコンセプトが「チャレンジ」であり、私の好きな言葉でもあるからである。私がこの事業にかかわるようになったのも、このコンセプトに共感したからであった。
考えてみれば、人間という動物はその進化の歴史の中で、今よりも少しでも良い方向を求めて、さまざまな困難にチャレンジしながら変ってきたといってよいのだろう。そして体の動かし方も、知恵も技術も、格段に進歩を遂げてきたのである。ここ1万年という単位で考えても、他の動物の変化はきわめて小さいのに、人間の獲得したものの質、量、それによる生き方の変化は比較にならないほど莫大なものである。
しかも人間は、その変化を遺伝子には組み込まなかった。2本足で立って歩くという人間を人間たらしめた基本の動作さえ、遺伝子情報には組み込まれていないのである。馬は生まれてすぐに立ち上がって歩けるが、人間は1年近くも立ち上がることさえ出来ない。しかも狼に育てられた人間は4つ足で走っていたというように、立つことも2本足で歩くことも生後に見よう見真似と自分の努力で獲得していくことなのである。狼がまったく人間社会の中だけで育っても、2本足で歩くなんてことは絶対に起こらない。
言葉にしてもさまざまな知恵にしても、人間が長年かけて発達させた大脳の中には素材となる記憶装置はあっても、蓄積された記憶もソフトもほとんどない状態で生まれてきて、生後に外からの働きかけと自分の努力で能力を獲得していくという過程をとっている。
いわば人類が長年かけて獲得し拡大してきた能力というか膨大な知的遺産を、そのまま次の世代に贈与するのではなく、その倉庫とも言える大脳を空っぽの状態で赤ん坊を生んで、そのあとで人類のたどった長い歴史での進化の過程を個人で再現しながら獲得していく方法を取ったのである。生まれる前の胎児の間には単細胞から分化していって、魚や鳥に似たような状態から人間の体形に育っていくというのも、ヒトの進化の道を一通りたどっているのであろう。
もちろん人間は、無能力とも言える赤ん坊を一人前の大人へとどう育てるかという方法を教育というシステムとして持っているが、その中に身をおいていれば誰でも一人前に育つというものではない。本人に自分をよりよくしようという意欲がなければ、人並みに成長することはできない。知らないこと、出来ないことにチャレンジしていかなければ、分かる、出来るようにはならないのである。
そしてその中でさらに強いチャレンジ精神を持っていてしかも能力の高い人には、これまで人間が獲得してきた知恵や能力や技術をさらに高めることへの挑戦の場が与えられることになる。知や学問の進歩や、科学技術の開発、芸術での美の追求、スポーツでの記録や限界への挑戦、政治、経済など人間社会のあらゆる活動での進化は、こうした人たちによって支えられていくことになる。チャレンジあってこそ人類は発展するという戦略をとったのであろう。
しかしチャレンジの全てが人間の幸せにつながるものではない。人間に大きな利益をもたらしてきた現代の革新的な科学技術も、他面では地球の温暖化という地球規模の危機をももたらしている。これからのチャレンジには、身近な幸せだけを考えるのではなく、人間にも、地球全体にも幸せをもたらすようなものであること、チャレンジの結果が何をどの方向に変えるものなのかを吟味していくことが求められるであろう。YMFSの事業もそうした意味でのチャレンジの取り組みを支援していきたいものである。
(このコラムは、平成20年1月に発行したYMFS通信Do the Challenge Vol.5に掲載された内容を転載したものです)
プロフィール
浅見 俊雄(あさみ としお)
埼玉県出身。東京大学卒業。東京大学名誉教授・日本体育大学名誉教授。元国立スポーツ科学センター(JISS)センター長、日本サッカー協会顧問、アジアサッカー連盟 規律委員会・審判委員会 副委員長など。元YMFS理事・審査委員長・調査研究担当理事