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【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

研修医として慌ただしくも充実した日々

北里大学を卒業後、能瀬はキャンパスのあった相模原市から東京都文京区に住居を移し、墨田区の同愛記念病院で研修医としてキャリアをスタートさせる。自ら希望して夜中でも緊急手術に呼んでもらい、週に5日の当直は当たり前、はたしてそれなりの家賃を払ってマンションを借りている意味があるのだろうか、と思うほど、自宅とは無縁の慌ただしい日々だった。しかしそんな忙しさの中でも、能瀬は買ったばかりのパソコンを開き、インターネットでスポーツと関連するありとあらゆる講演や研究会を検索し、時間の許す限り参加し続けた。

【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

「今となってはお話しするのも恥ずかしいのですが、いきなり日本サッカー協会に電話をかけ、産婦人科の研修医をやっていてスポーツに関わりたいと思っている者なのですが、なにかお手伝いできることはありませんか?とたずねたこともありましたね」

彼女からの電話を受けた日本サッカー協会の女性は、どうやら人の熱意を好意的に感じてくれる人だったようだ。今は特にお願いできることはありませんが、日本サッカー協会が1年に2回主催しているサッカードクターセミナーというものがあるので、それに参加してみてはどうですか、と親切に勧めてくれた。(この話には続きがあって、実際そのセミナーに参加するようになった彼女は、数年後、当時勤務していた焼津市立総合病院での手術中、日本サッカー協会からの電話を受ける。U-13日本女子代表チームと共に、日本サッカー協会史上初めて女性スタッフだけで編成されたチームの一員として、ベトナムで行われる大会にチームドクターとして帯同してもらえないかと。もちろん答えはイエスだった)

乾いたスポンジが水を吸い込むように、20代半ばの能瀬は新しい知識、新しい体験を吸収してゆく。ところが、あまりにも日々を頑張り過ぎたのだろうか。研修医としての2年目、数日ぶりに戻った自宅のマンションでくも膜下出血を発症する。シャワーを浴び、ちょっと立ちくらみがするなと思った次の瞬間、今度は吐き気を覚えた。脳圧が上がっていることを察知した能瀬は、すぐに救急車を呼んだ。

「救急隊員の方が到着して、〇〇病院に運びますね、という声を聞いたのを最後に意識を失って、その次に目覚めたときは東京都立大塚病院のICUの中にいましたね」目を開けるとそばには八戸から駆けつけた母親、そして叔母がいた。

手術は12時間に及んだ。くも膜下出血の場合、三分の一の患者は助からず、三分の一は助かっても身体のどこかに麻痺が残り、残りの三分の一はなんの後遺症も残らずに助かる、と言われる。能瀬の場合、もし仮に助かっても麻痺が残ってしまえば、外科でもある産婦人科医のキャリアは諦めなければいけなかった。

しかしどうやら医学の神様は彼女にどうしても産婦人科医の道を歩ませたかったようだ。手術は無事成功し、後遺症はいっさい残らなかった。
「26歳でくも膜下出血というのは、大塚病院の最年少記録だったそうです。それともうひとつ、術後2日目で食事をしたというのも病院の最短記録、大塚病院には2つの新記録を残してきましたよ笑」
退院から3ヶ月後、能瀬は再び現場に復帰、同愛記念病院で研修期間を終了したのち、東京大学医学部附属病院女性診療科・産科に入局し、系列の病院でさらに産婦人科医としての経験を積んでゆく。

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