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【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

産婦人科医としてのアイデンティティ

【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

部活動の季節が終わりを告げ、そろそろ次の進路について真剣に考えなければならない時期がくると、能瀬は八戸高校にあった指定校推薦枠に応募し、北里大学医学部への進学を決める。普段の校内試験では本人曰く「一夜漬け」の才能を大いに発揮した。

「私には3人の兄がいるのですが、母曰く、私がまだ小学校の頃、もしお兄さんたちが誰もお医者さんにならないなら、わたしが父のあとを継ぐ、と言っていたそうです」

地元の人々から絶大な信頼を寄せられる父の存在が彼女を医療の道へ向かわせたのは自然な成り行きだった。そしてもうひとつ、彼女が医師という仕事を強く意識した出来事があるとすれば、それは大好きだった大伯父が高校2年生のときに亡くなり、生まれて初めて人のなきがらを目にしたことだったのだろう。大好きな大伯父のために自分はなにもできなかったな、その悲しくて虚しい感情も彼女を医師の道へと向かわせるきっかけとなった。

1997年、大学進学を機に、能瀬は八戸を出て北里大学のキャンパスがある神奈川県相模原市にやってきた。ちょうど駅前にショッピングセンターができたばかり、当時の相模原はまだ、故郷の八戸よりも若干都会、という印象の街だった。
大学に進学すると、あれだけのめりこんだバスケットボールはもうやらなかった(選手が足りないからという理由で、たまにバスケ部の助っ人に駆り出され大会に出ることはあったが)。友人たちに誘われてテニスを始めてみたものの、ラケットで小さなボールを打ち返すことにさほど心は奪われることもなく、次第にコートから離れていった。医師になるための真剣な勉強、そして友人たちとの楽しい飲み会、そのふたつが彼女にとっての大学生活となった。
北里大学での時間はどんどん過ぎてゆく。3年生の年が終わり、4年生の年が過ぎ、やがて最終学年がやってくる。さて自分はこれからどの方向に進んでゆくべきなのか、能瀬はまだ決めかねていた。

父の仕事を子供の頃から間近で見てきた彼女の中には、産婦人科医という強いアイデンティティがすでに存在していた。産婦人科は唯一患者さんに「おめでとうございます!」と言える診療科であり、生まれたての赤ちゃん、少女、女の人、そしておばあちゃんと、人生にトータルで関わることのできるとても魅力的な仕事だ。
しかしもう一方で彼女の中には、とにかくスポーツに関わる仕事がしてみたい、という強い思いもあった。トレーナーになるという選択肢を考えたこともあった。当時、そして今でも、医師としてスポーツに関わる診療をしたければ整形外科医になるのが一般的な選択である。ところが、もし仮にその道を選んでしまうと、産婦人科医の仕事はできなくなってしまう。ではその逆はどうだろうか?産婦人科医として、スポーツとなんらかの関わりを持てないものだろうか?
答えは大学5年生のある日、公衆衛生の教授の研究室で彼女の目の前に現れた。その部屋で彼女はたまたま、よく病院の待合室に置いてあるような二つ折りのリーフレットを手に取った。

「そのリーフレットの隅っこの方に『女性アスリートは月経が止まったり、骨粗鬆症になることがある』という短い記事が載っていたんです、小さな赤い三角形の図と一緒に」

その図は、女性アスリートの抱える三主徴(利用可能なエネルギー不足、視床下部性無月経、そして骨粗鬆症)の相関関係を簡単に示したものだった。あ、これだ!彼女は産婦人科医としてもスポーツに関わっていける可能性があることを、直感的に確信した。

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