写真=近藤 篤 Photograph by Atsushi Kondo
ヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞受賞者の取材を始めて今年で11年目になる。
10年前、初めての取材はフィギュアスケートコーチとゴールボール女子日本代表チームヘッドコーチ、それ以降18名の受賞者(あるいは受賞団体)の写真を撮り、そして話をうかがって記事にしてきた。義肢装具士、鍼灸師、あるいはパラノルディックスキーの監督、障害をもつ子供たちに水泳を教える女性コーチ、日本初の女性プロサッカー審判…。リンク、体育館、プール、芝生のグラウンド、「縁の下の力持ち」が活躍する舞台は実に様々だった。
2023年、第15回YMFSスポーツチャレンジ賞を受賞した能瀬さやかさんの舞台はどこと表現すればいいだろうか。
2012年、国立スポーツ科学センター(JISS)が公募した内科医の仕事に就いた能瀬さんは、産婦人科医という視点から女性トップアスリートたちのデータ収集・分析を行い、彼女たちの置かれた危機的な実情を明らかにした。
月経やピルの使用についての誤った認識、無月経のアスリートの多さ、10代での摂取エネルギー不足からくる深刻な骨粗鬆症…。なぜそれまで誰も気づかなかったのかはわからないが、とにかく事態は深刻だった。どうすれば女性アスリートたちの今と未来を守ることができるのか、そこから能瀬先生のチャレンジが始まった。彼女の舞台は診察室、いや、アスリートの身体の中、と表現した方がより正しいかもしれない。
能瀬先生の取材のためにJISSを訪れたのは2023年の6月のことだ。
産婦人科医へのインタビュー。正直なところ、うまく話を聞けるかどうか自信はなかった。子供の頃から病院とお医者さんは苦手だったし(まあJISSは病院ではないけれど)、女医さんには、なんとなく「こわい人、厳しい人」というイメージを持っていた(もし変な質問をして叱られたらどうしよう)。
それに、そもそも僕は男性で、産婦人科とはほぼ縁のない人生を送ってきて、女性の身体に起こる様々な変調、たとえば月経というようなものも経験したことがない。正確には、経験したくても経験できない。(親友の女性によれば、月経を経験したくてもできないとか言っている時点で、女性の身体の仕組みとその難しさについて本当に何にもわかっていないのよっ!だそうだ)
そんな自分が、はたして女性アスリートたちの問題について深いところで理解できるのだろうか。
だから僕はまずインタビューの冒頭で、自分は女性アスリートが抱える問題について、何がわかっていないのかすら、たぶんわかっていないと思います、という断りを入れた。
すると先生はよく通る声で、優しくこう答えてくれた。
「大丈夫です。そもそも男性だけでなく、女性自身でも自分の身体の仕組みのことをわかっていない人はまだまだ大勢いますから」
インタビューは2時間近く続いただろうか。先生の生い立ち、研修医の頃、産婦人科医という仕事への強い思い、と同時にスポーツにも関わりたいという純粋な願い、JISSの資料室で女性アスリートたちのカルテに目を通し続けた日々、そしてその後に続く啓蒙活動。
先生の熱意に満ちた言葉はすごく素直に流れ込んできて、僕は何度も何度も、なるほど、なるほど、と頷き続けた。彼女の説明はとてもわかりやすかったし、扱っているテーマがどのくらい深刻な問題なのかも、十分に理解できた。
女性の身体は僕たち男性(あるいは女性自身も)が思っているよりはるかに繊細で、スポーツをやるということは、その繊細さに、より真摯に向き合うことでもある。異性の肉体の仕組みを理解できるかできないかの前に、まず僕たちがあまりにも知らなすぎることが問題なのだ。
先生から出てきた言葉の中で、とても印象に残っているものがある。本当をしらないと、本当でないものを本当にしてしまうんですよね。だから先生は、女性の身体の本当の仕組みとは何なのか、それを必死に訴え続けている。
インタビューから2ヶ月後、能瀬さんと女子マラソン金メダリストの野口みずきさんとの対談があった。お二人が会うのはこれが2回目ということだったが、対談が始まる前から、お互いの趣味であるワインの話をしながら、まるで旧知の友人のように楽しげに笑い合っていた。
対談の最後、野口さんがこんなニュアンスの言葉を口にしたのが今も印象に残っている。
大事なことって、誰から聞かされるかも、すごく大事だと思うんですよね。この人の言うことならちゃんと聞こう、って。
そう、能瀬先生の言うことならちゃんと聞こう、それもまたチャレンジを続ける人の持つ重要な資質なのだと思う。
写真・文
近藤篤
ATSUSHI KONDO
1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。