スポーツチャレンジ賞

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【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

2022年度のヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞は、産婦人科医の能瀬さやか氏が受賞した。
能瀬氏は1979年、秋田市で生まれた。生後まもなく、産婦人科医であった父、小倉秀彦氏の転勤に伴い、一家は青森県弘前市、青森市での短い生活を経て、太平洋岸の港町、八戸市へと引っ越すことになる。
「父の新しい勤務先は八戸市の青森労災病院でした。ずっと後になって聞いた話ですが、もともと分娩をほとんど扱っていなかったこの病院で、父は積極的に分娩を受け入れ、全国の労災病院の中で上位の分娩件数を誇る病院になったそうです」

バスケットボールに明け暮れた日々

彼女が小学校3年生の時だった。父の秀彦は、当時の東北では初めての試みだったクリニックビルを開設し、そのビルの一角で八戸クリニックという産婦人科を開業した。

とにかく明るい産婦人科、それが父親の口癖だった。どんなに忙しくともいつも上機嫌、患者さんを相手に駄洒落を言ってはよく笑わせていた。緊急の呼び出しがあればたとえそれが真冬の真夜中でも、白い雪の積もった世界へ大急ぎで出かけてゆき、新しい命をまたひとつこの世界へと送り出していた。産婦人科医になるということは、1年365日、一時も産婦人科医であることを休む暇はないことを意味する。「ですから、家族みんなで旅行に行ったのは、父が八戸でクリニックを開業する前の一度きりでしたね」

【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

(父、小倉秀彦氏はその後2018年に73歳で亡くなるまで、およそ1万6千件もの分娩を手がけ、他にも「大正の広重」と呼ばれた鳥観図絵師、吉田初三郎の絵を収集しクリニックに併設した美術館で展示したり、東日本大震災のときは地元の観光地であった種差海岸にいち早く休憩所を作ったりと、医療の枠を超えて地域に貢献した人物だった)

小、中、そして高校を通じて、能瀬がのめり込むことになったバスケットボールとの出会いは、ちょうど父のクリニック開業を機に、港のすぐそばにあった八戸市立白銀小学校から市内中心部の長者小学校へと転校した時だった。新しいクラスの担任はミニバスケットボール部の顧問、当時小学校3年生で背の高かった彼女をバスケットボールの世界に熱心に勧誘した。能瀬は運動神経が良く、校内のマラソン大会で優勝するくらいのスタミナもあった。しかし、正直バスケットボールに関してはあまり気も乗らず、部には所属したものの練習はよくサボった。

【能瀬さやかの足跡】われわれが女性アスリートについて知っておくべきとても大切なこと 産婦人科医 能瀬さやかの挑戦

6年生になると能瀬はチームのキャプテンに任命される。それが転機だった。責任感という感覚を初めて体験した少女は、以後、高校を卒業するまでの7年間、バスケットボールの面白さにすっかりはまってしまう。
八戸市立長者中学校、そして青森県立八戸高校、能瀬はバスケットボールに文字通り没頭した。6年間の中学、高校時代、たぶん思春期の少女が経験したことは数えきれないほどあっただろうが、当時のことを思い出そうとしても、脳裏によみがえるのはひたすらバスケットボールをやっている自分と練習や試合で汗を流した体育館の光景だけだ。そのくらいこの競技に夢中になった。特に高校での3年間はチームメイトにも恵まれ、県大会では結果を出せなかったものの、市内では優勝という結果を残せた。

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