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【伊藤裕子の足跡】水の中の奇跡

【伊藤裕子の足跡】水の中の奇跡

なぜ僕はダメなの?

浜松に来て5年目の冬だった。彼女の勤めていたスクールに、車椅子に乗ったコバヤシくんという6歳の少年が現れた。彼の兄は同じスクールの生徒としてすでに水泳を学んでおり、もし可能ならば脳性麻痺の障害を持つ彼も入会したいということだった。

ダウン症、自閉症、伊藤はそれまで何人もの障害を持つ子供たちを大阪でも岐阜でも指導してきた。車椅子の子供は初めてだったが、それが入会を断る理由になるとは全く思わなかった。むしろ、脳性麻痺の子供に水の中でどんなことを体験させてあげられるのか、そこに興味を惹かれた。

水の持つ不思議な性質の一つに、水の中のものを持ち上げようとする力、つまり『浮力』というものがある。脳性麻痺の子供にとって、水の中は陸の上よりも何倍も快適な世界になるはずだった。
伊藤の直感は正しかった。30分ほどの体験入門が終わると、少年は早くも水の世界が気に入ったようでニコニコと機嫌のいい笑顔を浮かべていた。少年の母親は正式なスクール入学に必要な書類をその場で書き込んだ。

ところが、彼女の働くスイミングスクール自体が少年の入校を拒否してしまう。
伊藤には何の相談もなく、上司は早々に菓子折りを持って詫びを入れに行き、その後なぜスクールは少年を受け入れられないかの説明がなされた。
曰く、何かあった時に責任が取れないから、他のスクール生に迷惑がかかってしまうから、見た目が良くないから…。
今となっては信じられないような理屈だが、今から30年前というのはそういうことを真顔で語る会社や個人がいくらでもいた時代だった。(そして残念ながら、今でもそう思う人々はいる)

当たり前のことだが、伊藤は到底納得できなかった。健常の子供でも他のメンバーに迷惑をかける子は大勢いるし、どんな子であれスポーツをやっている最中は常に不測の事態にさらされている。しかも、自分たちは水泳を教えるプロである。プロというのは本来、できない子をできるようにするからプロと呼ばれるのだ。「見た目が良くない」などという理由に至っては、言語道断だった。

自宅を訪れた伊藤の前で、少年は「なんでお兄ちゃんはいいのに僕はダメなの?」と泣き、母親は、障害を持った子供をこの社会で育てる難しさについて語りながら泣いた。
自ら進んで障害者として生まれてくる子供はいないし、自ら進んで障害を持つ子供を産もうとする母親もいない。なぜこの世界の住人はそんな簡単なことさえ理解できないのだろうか。伊藤は二人に、なんとか自分が会社を説得する旨を伝え、とりあえず今の自分にできることを申し出た。自分には週に一度お休みがある。そのお休みを利用して、あなたがスクールに受け入れられた時、しっかりみんなについていけるようコーチしてあげますから。

同時に、伊藤は分厚い電話帳を片手に浜松市内のありとあらゆるスイミングスクールに電話をかけ、事情を話し、少年の受け入れ先を探しもした。しかし、どこも答えは同じだった。事情はわかりますが、うちではちょっと・・・。

【伊藤裕子の足跡】水の中の奇跡

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