ぺんぎん村の始まり
1992年の4月だった。伊藤裕子は「ぺんぎん村」という名の小さなスイミングスクールを始めた。練習場所は静岡県浜名郡可美村(現浜松市南区)にあった市民プール、およそ20名のスクール生のほとんどは脳性麻痺の障害を持つ子供たちだった。陸の上ではよちよち歩きだけれど、水の中なら自由に泳ぎ回ることができる、そんなペンギンのイメージは、彼女がこれから寄り添ってゆこうと決めた子供たちにぴったりに思えた。
「ぺんぎん村」をスタートする1ヶ月ほど前まで、伊藤は浜松市に本社を置くスイミングスクールのチーフインストラクターとして働いていた。専門はベビースイミング、母親と3歳児までの子供が対象だった。
インストラクターの仕事を始めたのは大阪の短大を卒業して2年目の春だった。生まれも育ちも岐阜県美濃市、4人兄弟の上から3番目、音楽の大好きな家庭な中で彼女も幼い頃からピアノを習った。漠然とではあるが、ゆくゆくは音楽の世界で生きていくことになるのかなと思っていた。
しかし中学2年生の時、陶器製の貯金箱を包丁の柄で割ろうとして左親指を深く切ってしまう。幸い指の切断は免れたが、神経に後遺症が残った。医師には「プロのピアニストは諦めなさい」と告げられた。あとになって考えれば、この怪我が伊藤の人生の方向を少しばかり変えたのかもしれない。
スポーツに関しては、すごく好きだったわけでもないが、やればなんでも器用にこなせた。ただ、生まれつきの低血圧で、頻繁に脳貧血に見舞われた。「横になってできるスポーツをやりなさい」そんなアドバイスを医者から受け、中学2年生の時に水泳を始め、真剣に取り組んだ高校時代は東海大会にも出場した。
大阪の短大では心理学を勉強し、卒業後は茨木市にあった幼稚園で教諭の職を得たが、翌年には幼稚園と同じ経営母体のスイミングスクールのインストラクターへ転身した。指導要綱に従うだけの幼稚園の先生の仕事にはあまり魅力を感じられなかった。
大阪で1年、郷里の岐阜で3年、何ヶ所かのスイミングスクールで働いたのち、1988年、伊藤は浜松市内での大手スイミングスクールの立ち上げに参加する。スクール運営が軌道に乗った後は、同市内のまた別のスイミングスクールの立ち上げに携わった。当時はスイミングスクールの一大ブーム、経験豊かなインストラクターは引く手あまただった。
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