
アトランタへ
澤木から声をかけられた数日後、安田は羽田空港へ向かう。初めて会う全盲のマラソンランナー柳川春己を迎えに行くためだった。柳川は4年前の1992年、パラリンピックバルセロナ大会男子マラソン全盲の部6位、日本のブラインドマラソン界では第一人者だった。
到着ロビーで柳川の到着を待っていると、空港職員に案内されながら、一人の男性が白杖を手に歩いてきた。
「あの……柳川さんですか」
「はい、柳川です。よろしくお願いします。」
空港職員が立ち去り、二人だけになる。目の前には白杖をついた一人のランナーが立っている。安田は正直に頭を下げ、こう伝えた。「すみません、どう案内したらいいのか分からないんです」
柳川は少しも驚かず安田の二の腕につかまり「半歩前を歩いてください、狭いところだけ気を付けてもらえれば大丈夫です」と答えた。伴走者になるはずの安田が最初に教わったのは、全盲の人間との歩き方だった。
本番までわずか3ヶ月
その日の夕方、ホテルにチェックインした後、翌日のレースのすり合わせを兼ねて、二人はホテル前の遊歩道を走ってみることにした。
柳川はバッグから小さな輪になった一本のロープを取り出した。「これを二人で持って走ります。」安田は、こんなもの持って走れるのか?と半信半疑のままそのロープを握り、柳川の隣で走り出した。腕の振りがずれるし、歩幅は合わない。ロープが引っ張られ、柳川の身体が安田のほうへ流れる。
何度やっても同じだった。柳川は伴走者である安田の走りを見ることができず、安田は伴走する人を見たことすらなかった。つまり、正解を知る人がそこにはいなかった。
結局その日、そして翌日の本番でも、ロープを持って走るのは諦め、二人は手をつないで(現在では認められていない)5,000mを走り、日本新記録で優勝した。
アトランタまではわずか3ヶ月。二人は、ともに答えを探し始める。安田は柳川が暮らす佐賀へ通った。柳川は千葉へ安田を訪ねた。山中湖でも合宿を重ねた。柳川は安田の指示に従って、それまで月300キロほどだった走行距離を一気に増やし、6月と7月の2ヶ月でおよそ1,400キロを走り、その半分近くを安田が共に走った。
練習が終わっても、練習は終わらなかった。夜になると柳川から電話がかかってくる。
「今日の後半のペースだけど」「30キロから、どう考えればいい」「給水はどうする?」
仕事を終えた夜10時。あるいは朝6時。携帯電話が普及していない時代、1時間近く話し込むことも珍しくなかった。
柳川はことあるごとに「オレは金メダルをとるんだ」と公言し、安田はそのたび「そんなことを軽々しく口にするんじゃない」と釘を刺した。
3ヶ月後の1996年8月、パラリンピックアトランタ大会、大会最終日。灼熱の太陽の下、二人は本番の日を迎える。
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