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【安田享平の足跡】ともに走るという生き方

【安田享平の足跡】ともに走るという生き方

走るということ

【安田享平の足跡】ともに走るという生き方

自分より速い仲間たちとトレーニングができる。そんな期待感を胸に抱いて社会人生活をスタートした安田だったが、彼の見込みと現実はまるで違った。

配属された工場勤務は三交代制、昼勤、準夜勤、夜勤の繰り返し。それはつまり、他の陸上部員とはまったくスケジュールが合わないことを意味した。トラックにはいつも自分一人だけ、そんな日が多かった。

まあ仕方ないか、安田は高校時代同様、自分の頭でトレーニングを考え、走り続けた。一匹狼、叩き上げ、そんな言葉がぴったりの陸上競技人生だった。

会社の同僚たちは夏になると海へ出掛けてバーベキューを楽しみ、冬がくればみんなで車に乗り込んでスキーへと出かけた。安田も誘いの声をかけてもらったが、やんわりと断り続けた。トレーニングの時間がなくなるのは嫌だったし、怪我も怖かった。やがて、誰も安田を誘わなくなった。

長距離という競技は正直だ。1週間頑張っても変わらない。1ヶ月でも変わらない。半年、一年と積み重ねても、変わらないときは変わらない。それでも、昨日走ったように今日も走り、そして明日も走っていると、ある日突然変化が訪れる。

社会人になって4年目。やっぱりもうダメなのかな、と安田がほんの少し弱気になってきたとき、いきなり記録が動き始めた。自己ベストを次々に更新し、東日本縦断駅伝では千葉県代表に選ばれた。代表のユニフォームを渡されたときには、これで家宝が手に入ったと本気で思った。その後、それらの実績が認められ、君津製鐵所の一般社員でありながら、新日本製鐵株式会社八幡製鐵所陸上競技部へ加わることにもなり、千葉県君津市と福岡県北九州市とを行き来しながら、ニューイヤー駅伝をはじめ全国の舞台を走るようにもなった。

トップ・オブ・ザ・トップ、世界を目指すようなエリートランナーにはなれなかったが、少年の頃から目標だった場所にようやく辿り着けたという実感があった。

主役を遥かに超える脇役

駅伝という夢をかなえると、次の新しい目標が生まれた。競技人生の最後は、マラソンで勝負したい。安田は縁があって順天堂大学陸上競技部で練習するようになり、そして1996年4月のある日、いきなり澤木啓祐監督に「アトランタに行って、パラリンピックで視覚障害者の伴走をやってくれ」と頼まれることになる。

すぐれたガイドランナーを探すのは、簡単なことではない。ガイドランナーは視覚障害を持つランナーと共に走り、彼らの目となって路面の状態を伝え、コースの状況や方角あるいはレース展開を伝える。伴走という呼び名が示すようにあくまでも脇役ではあるが、主役を遥かに超えるランナーでなければならない。

安田が澤木監督から声をかけられた1996年当時、そして現在も、基本的にトップランナーと呼ばれるような選手たちはほぼ全員実業団か大学に所属している。自分たちが大切に育てている選手を、視覚障害を持つランナーのガイドランナーとして貸し出してもいい、と首を縦にふる人間は皆無に近かった。加えて、トレーニング、移動、本番と、拘束時間も極めて長いし、個人的な事情で急遽予定をキャンセルすることも許されない。誰かの目になって走るということは、ものすごく大きな責任を背負うことになる。

1995年1月、館山若潮マラソンに出場し2時間20分23秒(大会新)で優勝 写真提供:安田享平氏
1995年1月、館山若潮マラソンに出場し2時間20分23秒(大会新)で優勝
写真提供:安田享平氏

しかし、安田享平は違った。トップランナーのレベルの脚力を持つ選手にもかかわらず、所属などのしがらみは一切なかった。それまでの人生と同じように、本人が「やる」と決めれば、それに反対する人間はいなかった。

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