
「やります」
1996年の4月だった。
「おーい、ちょっといいか!」
順天堂大学の陸上競技場に声が響いた。トレーニングを終えたばかりの安田享平は、肩で息をしながら振り返った。彼を呼んだのは、順天堂大学陸上競技部の澤木啓祐監督、陸上長距離界の名将として知られる人だった。
トラックの脇まで歩いていくと、監督はこうたずねてきた。
「今年の夏はどうするんだ?」
12月に開催される福岡国際マラソンを目指してこの夏は走り込むことを告げると、監督はさらりとこう言った。
「そうか。じゃあ今年の8月、アトランタに行って、パラリンピックで視覚障害マラソンの選手の伴走をやってくれないか?」
当時、安田享平は28歳。長距離ランナーとしての競技人生の締めくくりとして、彼は駅伝からマラソンへと挑戦の舞台をシフトさせていた。
パラリンピックどころか、障害者のスポーツに興味をもったことは一度もなかったし、目の見えないランナーが伴走者と一本のロープを持って走る、そんな競技があることすら知らなかった。ましてや自分がその伴走者になることなど、当然ながら想像したこともなかった。安田にとって唯一興味があるのは、次のレースで1秒でも自分の記録を更新することだった。
しかし安田は間髪を入れず澤木に返事をした。
「はい!」
澤木監督は常々こう語っていた。
誰かになにかを頼まれたらな、「はい」か「いいえ」ですぐに答えるんだ。うまくいくかどうかなんて、心配しなくていい。そんなことは頼んできた人がもう十分に考えているし、だからこそ相手は君に頼んできているのだから。
第18回ヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞は、特定非営利活動法人日本ブラインドマラソン協会で強化委員長を務める安田享平が受賞した。かつては視覚障害のあるランナーたちのガイドランナーとして共に走り、現役引退後は長年にわたり、トップアスリートや指導者の育成、さらには市民ランナーへの普及・振興活動を通じ、ガイドランナー界の第一人者として大いに尽力してきた人物である。
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