2022年7月14日だった。その日、日本サッカー協会は定例の理事会において、山下良美という女性審判とプロフェッショナルレフェリー(以下PR)契約を結んだことを報告した。PR制度(設立当初はスペシャルレフェリー制度と呼ばれていた)は2002年、トップレベルの審判員が審判活動に専念できるようにという目的で誕生した制度だ。契約は1年ごと、期間中は金銭面も含め様々なサポートが協会から受けられるようになり、PRに任命された審判はより自分の役割に集中できる環境を得る。
これまでの20年間で日本サッカー協会がPRに指定した審判は(副審も含めると)わずか29名、今年で36歳になる山下良美主審は30人目、そして女性としては史上初のPRとなった。(注:2021年度のヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞奨励賞受賞が決定した時点では、彼女のプロフェッショナルレフェリー契約、並びに後述するFIFAワールドカップへの参加は決まっていない)
サッカーとの出会い
1986年、山下良美は東京都中野区、副都心新宿からさほど遠くない西武新宿線沿線の街で生まれた。彼女がサッカーと出会ったのは4歳のとき、まだ小学校に上がる前だった。
「先に兄がサッカーをやっていて、私もそこについて行って、そんなよくある理由です。まだルールも理解できていなくて、サッカーが好きというよりも、練習がとにかく楽しくてたまらなかったんです。私は色々な人に支えられてこれまでやってこられたのですが、サッカーという世界は楽しいものなのだ、そんな環境をみなさんが与えてくれたことに心から感謝しています」
小、中学校の9年間は地元のサッカークラブに入団し、週に2回の練習と週末の試合が彼女の生活の軸になった。本人曰く、足が特別に速いわけでもなく、ものすごいテクニックがあったわけでもない、ごく普通の選手だった。ひとつ長所と呼べるものがあったとすれば、それは「できないことをできないままで放っておくことが苦手だった」ことかもしれない。課題が見つかればその課題を解決できるまで、山下はひたすら全力を傾けた。
中学校を卒業し東京都立西高等学校へ入学すると、彼女は大好きだったサッカーを一度離れ、バスケットボール部に入部した。小、中学校時代、学外のクラブという場所でスポーツに勤しんだ山下は、一度でいいから学校の「部活」というものを全力で楽しんでみたかった。
加えて、実はこれが主な理由だったが、サッカーをやりたくても進学した高校には女子のサッカー部がなかった。その当時、高校生になってもサッカーを続けられる女子選手は、そのまま実業団に入ってもやっていけるようなレベルの選手に限られていた。山下のようにそこそこのレベルでサッカーを楽しんでいた女の子には、サッカーをやめる、という選択肢以外のものは与えられていなかった。
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