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【コラム】失ったあとに生まれるもの

【コラム】失ったあとに生まれるもの
【コラム】失ったあとに生まれるもの

写真=近藤 篤 Photograph by Atsushi Kondo

【コラム】失ったあとに生まれるもの

2024年6月最後の日、僕は埼玉県にある戸田市スポーツセンター内の陸上トラックにいる。

「今月末の日曜日、月に一回の練習会がありますよ。僕も顔をだす予定です」。
3週間ほど前、今年度の受賞者、遠藤謙さんのインタビューの際、本人からそう聞いていた。

「義足エンジニア」遠藤謙。慶應義塾大学大学院でロボット工学に打ち込んでいた彼は、骨肉腫によって膝下を切断せざるを得なくなった友人の存在がきっかけで、義足の世界と出会うことになる。

正午少し前、練習会に参加する人たちが三々五々、トラックに集まってきて、一般用義足を競技用義足に履き替えブレードに付け替え始める。遠藤さんは少し遅れてやって来て、参加者と挨拶を交わし、子供たちのそばに座って小さな工具を取り出すと、ニコニコ笑いながら彼らの義足の調整を始める。

【コラム】失ったあとに生まれるもの

準備ができた参加者とともに大きな輪を作ると、まず軽いストレッチから練習会を始める。そこからおよそ1時間の間に、用具を使ったバランストレーニング、ひとつ短い休憩を入れて50M走を3本、さらに最後は全員参加のバトンを使ったリレーを2本。
休日にみんなでのんびり走ることを楽しむ、こちらが勝手にそう勘違いしていただけで、終わってみるとかなり強度の高い練習会だった。

けっこうきつい練習会なんですね。
トレーニングを仕切る義肢装具士の沖野敦郎さんに話しかけると、彼は真顔でこう答える。
ええ、陸上競技の練習ですから。
遠藤さんは相変わらず、練習会に参加した子供たちのブレードを、ニコニコ笑いながら調整している。

【コラム】失ったあとに生まれるもの

友人の足をなんとかしたい、遠藤さんは慶應義塾大学大学院を中退し、アメリカ、ボストンのマサチューセッツ工科大学のメディアラボへと進路をとった。
メディアラボを仕切っていたのはヒューハー教授。若い頃は優秀なロッククライマーとして知られていた彼はある時山で遭難し、両足首から下を切断する。しかしその後も様々な形状の義足を考案しては、その義足でかつては登れなかった岩壁すらも征服したというエピソードの持ち主だ。
ロボット工学のエンジニアだった遠藤さんはボストンの地で新たな人々に出会い、新たな価値観を手に入れてゆく。
足の切断、たしかにそれは残酷な現実だけれど、それは同時に新しい可能性がそこに生まれたということでもあることを、彼は確信してゆく。

トラックの横にあるコンクリート製のスペースでは、練習会が終わってもまだ若干息が上がったままの男性が、額の汗を拭いながらジャージに義足を通している。それなりの年齢に見えるが、さっきの50m走ではかなり速い走りを見せていた。

速いですね!と僕。
いやいや、全然ですよ、と彼は謙遜する。
年齢を聞いてみると、61歳だという。(僕と同い年じゃないか!)
ちなみに50mの記録は何秒くらいなんですか?
彼は静かに微笑みながら小さな声で答える。8秒4くらいですかね。まだまだですね。

左下肢にブレードを装着した61歳の男性が、8秒4をまだまだですね、と言う。僕はちょっと黙り込む。

【コラム】失ったあとに生まれるもの

もう何十年も50m走のタイムなんて測ったことはない。
(もちろん僕だけでなく、この世の中のほとんどの人はそうだろう)
もし今の自分が50mを全力で走ったら、いったい何秒かかるのだろう?8秒4より早く走れるだろうか?いやその前に、たぶん間違いなく僕の脚は、30mあたりでヒラメ筋が痙攣するか、40mあたりでハムストリングが肉離れを起こすだろう。

そこで僕は気づく。僕が社会的弱者だと思っている目の前の男性よりも、僕の方が、少なくともこの茶色のトラックの上ではさらに弱者であることに。彼は走ろうとし、僕は走ることをやめてしまったことに。

BLADE FOR ALL、誰もが走りたいと思った時に走れる世界を。
遠藤謙さんとその仲間たちが広げてゆくその理念に、僕は深く共感する。

近藤 篤

写真・文

近藤篤

ATSUSHI KONDO

1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。