1978年(昭和53年)の夏の初め、遠藤謙は静岡県沼津市に生まれた。
どんな子供だったんですか?遠藤はさらりと答える。
「特に語るべきストーリーはない子供でしたよ。スポーツも勉強もそこそこ、ゲームばかりやっていましたね」
これは頑張ったと言えるものがあるとすれば、小学校時代はミニ四駆、そして中学校になって始めたバスケットボールくらいだろうか。小学校の頃は相当な熱量でミニ四駆を作り、大会にも出た。始まりは大好きなコミック雑誌に掲載されていた漫画だった。『モノ作り』に興味を持ったのはたぶんその辺りからだ。
「なので、僕が今回この賞をいただけたのは、ミニ四駆のおかげかもしれません笑」
静岡県立沼津東高校普通科を卒業すると、遠藤は慶應義塾大学理工学部に進学した。父は慶応の法学部出身、兄も慶応の理工学部で学んでいた。理系の科目は得意だった。具体的に思い描いていた将来の夢はなかったが、大学に入ったらロボットの研究をしたいなと考えていた。そして、当時アメリカに住んでいた叔父の存在の影響もあり、いつか海外に行ってみたいと考えていた。
もしあの出来事が起こらなかったら、遠藤謙の人生はその後どんなふうに進んでいたのだろうか。答えは永遠にわからないが、慶應義塾大学を卒業し、同大学大学院へと進学した時点で、彼はそれまでの人生で「義足」というものについて真剣に考えたことは一度もなかったし、その後もずっとなかったかもしれない。
大学院での研究生活2年目のことだった。遠藤はカズヒロという名の4歳年下の親友の左足に骨肉腫が見つかった、という知らせを受ける。もしかすると左足を切断しなければならないかもしれない。あるいは、もっと悪い状況になる可能性もある。
後になって気づいたことではあったが、前兆はその1年ほど前、二人で表参道を歩いていた時にすでにあった。国道246号線にむかう長く緩やかな坂道を、カズヒロは左足をすこし引き摺るようにして歩きながら、膝の痛みを訴えていた。
なんであいつにこんなことが起こらなきゃいけないんだ。元々答えなどない虚しい問いかけが、来る日も来る日も遠藤の心の中を駆け回った。もしかすると…、そう考えただけでものすごい恐怖が襲ってきた。そしてその次には、悲しみ、怒り、そしてどこへもぶつけることのできない憤りが続いた。
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