スポーツチャレンジ賞

スポーツ界の「縁の下の力持ち」を称える表彰制度
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第8回 功労賞 藤原進一郎

第8回 功労賞 藤原進一郎

「すべての障がい者の生活にスポーツを――」その信念を貫いた40年

大阪市の中学校に保健体育の教員として21年間勤務。同時に大阪陸上競技協会や中学校体育連盟の理事としてスポーツの指導などに関わっていた。この時期、大阪で開かれる障がい者スポーツ大会の審判手引書を整備したことをきっかけに、障がい者スポーツとの関わりをもった。教職を辞した1974年、大阪市の職員となり大阪市身体障害者スポーツセンターに出向。初代館長から「私の専門は福祉。医療についても専門家がいる。だからスポーツのことはあなたに任せたい」と一任され、指導課長として利用者のスポーツ指導に当たった。当時から「すべての障がい者の生活にスポーツを」という思いを強く持ち、それまで「患者さん」としてとらえられてきた障がい者を「お客さん」として迎え入れ、広くスポーツの楽しさを提供した。

市民がいきいきとスポーツを楽しむ現場で指導を行い、障がい者のスポーツ、そして障がい者の競技スポーツの知見や指導技術を積み上げた藤原氏は、1980年アーヘンパラリンピックに日本選手団のコーチとして帯同。翌1981年、日本身体障害者スポーツ協会(現・日本障がい者スポーツ協会)に新設された技術委員会の初代委員長に就任し、2006年まで25年間同職を務めた。その間、地元・長居で勤務しながら、1984年ニューヨークパラリンピックでの日本選手団監督を皮切りに、1988年ソウル大会から1996年アトランタ大会まで夏季パラリンピック3大会連続で日本選手団総監督を務め、団長として選手団を率いた2000年シドニー大会では41個のメダルを獲得した。また、1998年長野冬季パラリンピックでも日本選手団総監督を務め、12個の金メダルを獲得している。

技術委員長就任当時、それまで福祉施策(社会参加・自立支援)として見られがちだった障がい者のスポーツに一般のスポーツ理論を採り入れるとともに、全国身体障害者スポーツ大会の競技規則等を整備。合わせて指導者制度の確立や競技団体の設立支援、競技会の企画や運営、選手の強化体制の構築・整備に加え、障がい者の体育・スポーツの振興に関わる複数の著作や、日本障害者体育・スポーツ研究会の発足・運営など、指導者の育成等にも多大な功績を残した。

2006年に技術委員会委員長を退任した後も、後進の指導や指導技術の向上のために幅広い活動を展開するとともに、東アジア・南太平洋地域の障がい者スポーツ統括団体フェスピック連盟の役員として活躍。2006年には同団体から特別表彰であるフェスピックオーダーが授与された。

※文中の施設、団体、大会等については、当時の名称のまま記述しています。

第8回 功労賞 藤原進一郎

藤原進一郎日本障がい者体育・スポーツ研究会 元理事長、日本障がい者スポーツ協会 元理事、技術委員会 元委員長、日本パラリンピック員会 元運営委員、極東・南太平洋身体障害者スポーツ連盟 スポーツ委員会 元委員長 (1932年生・岡山県出身) ※団体名は当時の名称で表記

1974年、屋内プールを備える全国初の障がい者優先利用のスポーツ施設、大阪市身体障害者スポーツセンター(現・大阪市長居障がい者スポーツセンター)の指導課長に着任。「障がい者=患者」「障がい者のスポーツ=リハビリ」ととらえられがちだった当時の社会認識の中で、藤原氏は「いつ、たとえ一人で来ても、障がい者がいろんなスポーツに親しめる施設」という個人利用重視の運営を志向して、楽しみとしてのスポーツを提供した。以来、障がい者のスポーツの一般化・日常化に尽くしながら、その第一人者として競技ルールの整備や選手指導、さらには指導者の育成や団体の設立支援など環境整備にも力を注いだ。その対象は、楽しみを目的とした市民からパラリンピック等で活躍するアスリートまで、また領域は人々がより良い環境でスポーツを行うためのさまざまな仕組みづくりにまで及び、「今日の我が国の障がい者スポーツの姿、そのすべてに藤原氏の足跡と功績がある」(公益財団法人日本障がい者スポーツ協会 中森邦男強化部 部長、日本パラリンピック委員会 事務局長)といえる。