パラノルディックスキー、ゼロからの挑戦
クロスカントリースキー経験を活かして、特別区の職員の傍ら東京都スキー連盟のジュニア強化に関わっていたことから、1998年長野パラリンピックに向けてヘッドコーチを依頼され、「日頃、指導している中高生と一緒にトレーニングできれば」と快諾。ところが1996年当時、パラリンピックの関係者は福祉・医療業界が中心でクロスカントリースキー、バイアスロンの経験は皆無。選手だけでなく、ガイドやコーチ、スタッフも不足。全くのゼロからのスタートとなった。時に道の駅や道端で障害のある若者に声をかけて選手にスカウトすることも。パラリンピック6大会連続出場で、2010年バンクーバーと2018年平昌の2大会で金メダルに輝いた新田佳浩選手も全国津々浦々手を尽くして探し出した選手のひとりだ。
「まずは人を集めなければ。そのためにはどうしたらいいのかをいつも考えていた。でも情熱さえあればそこに色々なものが磁石のように集まってくる。まさに“情熱は磁石だ”」と荒井さんは当時を振り返る。
長野までわずか2年余りだったが、障害を懸命に理解した上での長所を伸ばす熱心な指導により、井口深雪(旧姓小林)さんが金メダルを獲得する大活躍となった。その後、2002年ソルトレーク、2006年トリノ、2010年バンクーバー、2014年ソチ、2018年平昌までの20年、パラノルディックスキーの日本代表監督を務め、日本のパラスキーを牽引。
選手強化の傍ら、周辺のサポートスタッフ含め企業に勤めながら競技に専念できる環境を作りたいと、2004年11月に夏冬競技合わせて日本で初めてのパラリンピックを目指す実業団「チームAURORA(アウローラ:イタリア語で夜明け)」を株式会社日立ソリューションズに設立。その監督に江東区の職員から転身して自ら就任。企業スポーツとして継続させるには社員の理解・支援が欠かせないと、チーム発足と同時に社員後援会を結成。「入会率、社員の応援の数を、チームへの評価にしてもらった」そうで、社員への理解を深める活動などが奏功し、今では社員の過半数が入会するほどの支持率を獲得。2014年にはチームに「車いす陸上競技部」も加わり、夏と冬のパラリンピックで社員の求心力を高める存在となる。
さらにパラノルディックスキーの勝負の鍵を握ると言われるスキー板のワックスやストラクチャー(滑走面の溝)をコースや緻密な気象条件と照らし合わせながら調整。また選手の障害の程度に応じた係数を反映しリアルタイムに順位が確認できるシステムの開発など、日本チームのコーチたちと共に日本の企業を巻き込んで競技技術の向上にも貢献。「どうしたら選手が良くなるかと考えるだけで、面白いし、夢がある」と口元をほころばす荒井さん。北海道開拓団だった家系や小さい頃に育った環境などの影響か、何事にも好奇心を持ち、人が苦労に思うことも楽しんでしまえるそうで、持ち前の開拓者魂と磁石のように人を惹きつけてやまない情熱で、いまだに障がい者スポーツの環境改善や地元・北海道での冬季オリンピック・パラリンピック開催&メダリスト輩出に向け、まずはジュニアの発掘と指導者の育成に奮闘を続けている。
荒井 秀樹(1955年生・北海道出身)日本パラリンピックノルディックスキーチーム監督
中学生時代に距離スキー部に入部。1972年札幌オリンピックの全道ジュニア強化選手に選ばれるなどの実力であったが、高校では家庭の事情により活動を中止。中央大学に進学しクロスカントリースキーを再開。東京都スキー連盟に所属し個人で国体などに出場しながら、ジュニアの指導にも当たっていた。それが縁で、1998年長野パラリンピックに向け障がい者ノルディックスキーの組織化、選手強化、指導、育成を懇請される。以来、長野、ソルトレーク、トリノ、バンクーバー、ソチ、平昌と6大会連続でメダリストを輩出。2004年には日本初のパラリンピックを目指す本格的な実業団チームを設立し、パラ選手・ガイド・監督・コーチが企業からのサポートを受け、トレーニングに専念できる環境を確立。さらにスキーのワックスなど、日本企業を巻き込んで競技技術発展にも大きく貢献。現在、東京と北海道の大学で「パラリンピック概論」の講義を行い、障がい者スポーツ・パラリンピックへの理解を広げるとともに、2030 年札幌冬季オリンピック・パラリンピック招致に向け尽力中。