スポーツチャレンジ賞
北海道・旭川に生まれて

荒井秀樹は1955年2月16日、北海道旭川市で生まれた。実家は農業を営み、荒井の高祖父にあたる人物は山形県の蔵王近辺の村から入植してきた開拓団の一員だった。
日本で最も寒くなる土地、1900年代前半、新しい世界を築くためにこの地方にやってきた人々は、大変な労苦でこの凍てつく大地を切り拓きつつも、互いを助け合う精神を忘れなかった。
自分たちで開墾していった土地の一部分は必ず公共のものとして残し、後から入植して来る人たちのためにとっておく。そんなしきたりを開拓団の人々は代々残し続けた。いきなりこの土地にきて、何もないところから始めるとき、最低限のことには困らないように、と。

中学時代の荒井秀樹(左)と兄・拓己氏
荒井は、彼らの育んだ「互助の精神」は自分の中にもしっかりと生き続けている、と言う。
「「三助」という言葉があります。「互助」に加えて「自助」、そして「公助」。いつも人に頼むだけではなく、自らできることはちゃんとやる。そして社会のためにしっかりとお返しする。後々、パラスポーツに関わるようになってからも、生まれ育った土地に与えてもらったこの精神は、大きな支えになってくれたと思います」
高校三年生まではその旭川で育った。学業よりはスポーツを好む子供だった。
小学校時代にスキーのクロスカントリーを始め、中学生の頃は1970年の札幌冬季オリンピックへ向けて、ジュニア強化選手に選ばれるほどだった。
しかし荒井は高校時代、スキーの世界から一時離れることになる。
旭川工業高校の土木科へ進学して間も無く祖父が亡くなり、家の中で男手が一つ足りなくなった。兄が一人いたが、当時彼は札幌の全寮制の高校へ通っていた。となると、家業を手伝わなければならないのは、荒井以外にいない。広大な水田の雑草駆除作業をやっていると、とてもスキーを続ける時間はなかった。
毎朝学校へ行き放課後は家業を手伝う日々。工業高校を卒業したら、地元の企業にでも就職するつもりだった。しかし高校二年生の秋頃、荒井の中でちょっとした変化が起こり始める。きっかけはある国語の教師だった。
「その先生のおかげで、勉強っていうのも面白いもんなんだな、って思えるようになったんです」
それが意図されたことなのか、あるいは特に深い考えはなかったのか、今となってはもうわからない。その教師は毎授業、教科書に載っていた一つの詩を生徒たちに朗読させ続けた。
「永訣の朝」宮沢賢治が病で失った妹への愛と悲しみを描いた詩である。
けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
*宮沢賢治「永訣の朝」より、冒頭部分を抜粋
いつもは悪さばかりしているやんちゃな生徒たちも真剣に朗読し、中には涙を流す者もいた。
高校三年生の一年間、荒井はこれまでになかった懸命さで勉強し、翌春、当時はお茶の水にあった中央大学経済学部へと進学する。
大都会、新しい生活、さて何をやろうか?色々と迷ったが、結局荒井が選んだのはかつての自分が最も得意とすることだった。大学入学と同時に、彼は再びクロスカントリースキーの世界へ復帰した。
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