スポーツチャレンジ賞

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荒井秀樹

隻腕の少年との出会い

そのスター選手は、思いがけないところで見つかることとなる。

翌年2月、荒井は関係者数人とスウェーデンで開催されたIPCパラノルディックスキーの世界選手権に足を運ぶ。
日本チームは参加していない、というか参加できるチームすらなかったが、長野での本番に向けてのコース設計や大会運営の視察も兼ねて、全日本スキー連盟の関係者数名とともにスンネという小さな街を訪れた。
なるほどこんな風にパラの大会は運営されているのか、なるほどこんな風にパラのコースは設計されているのか。長野パラリンピック開催を2年後に控えているにもかかわらず、未だ何一つ決まっていない。今考えれば相当にのんびりとした話ではある。

1996年スウェーデン・スンネで開催された世界大会を視察

初めて現地で体験する世界最高レベルのパラノルディックスキーの大会。スンネでは見るもの、聞くこと、全てが参考になったが、この視察旅行は荒井にとって大きな宝物を手に入れるきっかけとなった。

「二日目だったか、三日目だったか。大会を観戦中、私の隣にいた全日本スキー連盟の関係者の方が、いきなり大きな声で叫んだんですよ。あっ!荒井くん、思い出した!いたよ、一人いたっ!って」

1996年長野大会に向けてトレーニングに励む新田佳浩選手

その関係者は、数ヶ月前、健常者の全国中学生スキー大会で隻腕の少年が出場していたことを、なぜかスウェーデンの地で突然思い出したのだった。

荒井は視察から帰国後すぐに、その名前も所在地もわからない少年を探し始めた。自分が関わっている関東地区にはそんな少年はいなかった。なんとか、大会の選手名簿を手に入れたが、もちろんそこに選手の身体的特徴が記されているわけではない。
荒井は名簿の一番端の欄に記されてあった選手の宿舎、その電話番号に一つ一つ電話をかけてゆくことにした。幸運なことに数軒目で、ある旅館の女性従業員がその少年のことを覚えていてくれた。確か岡山の子でしたよ。

2010年バンクーバー大会で新田選手は2つの金メダルを獲得

荒井はすぐさま岡山県スキー連盟に連絡を入れ、ようやく少年の居場所を探し出す。
なかなか見つからないはずだった。少年は幼少期、祖父の運転するコンバインに誤って左腕を差し込んでしまい、左腕を失っていた。家族は祖父の心痛を思い、少年をあくまでも健常者として育て続けた。事情を承知で、荒井はあえて少年宅を訪れ、とにかく一度見て欲しいとパラリンピックの映像を見てもらった。その映像に少年の心は反応し、パラの世界へと進み始める。
新田佳浩、それが少年の名前だった。当時中学2年生。長野での活躍は叶わなかったが、4年後のソルトレイクでは銅メダルを獲得、12年後のバンクーバーでは金メダルを2個、さらに20年後の平昌では金と銀を1個づつ、新田佳浩は日本パラノルディックスキー界の絶対的リーダーとして、次に続く者たちの憧れとなった。

<次のページへ続く>



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