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【コラム】荒井秀樹〜全てを楽しむ人

3月中旬、東京から札幌に向かった。
ちょうど札幌ではパラノルディックスキーのワールドカップが開催されていて、今年度の功労賞を受賞した荒井秀樹さんは日本チームの監督としてその大会に参加していた。

羽田空港を飛び立った飛行機は一時間半で新千歳空港に着陸する。東京の街でほんのりと感じていた春の気配は、未だ白い雪で覆われた白樺林の風景に変わる。

空港から市内へ、地下鉄で真駒内まで行くとそこからはシャトルバスに乗って札幌市豊平区にある西岡バイアスロン競技場へ移動する。
午前10時、競技がスタートする。ノルウェー、カナダ、あるいはウクライナ、ポーランド、そして日本など、国籍も、年齢も、そして障害の種類や程度も異なる選手たちが、電子音とともにストックを力強く雪に突き刺しあっという間に木立の中へと滑り去ってゆく。

午前中の競技が終わったところで、荒井さんの時間を少しもらって話を聞いた。選手たちが引き上げたノルディックスキーのコースは静かで、晴れ渡った空から差す北国の日差しが、白い雪の上に美しい木々の影を描く。

荒井さんは北海道の旭川市に生まれ、高校を卒業後、大学進学を機に東京での生活を始めた。
学生時代からスキーヤーとして国体を含むさまざまな大会に参加し、同時に中学生や高校生の外部コーチの役も引き受けていた。
そんな、ある意味で普通のスキーヤーだった彼がパラの世界と突然関わるようになったのは、1995年の11月だった。当時所属していた東京都スキー連盟の強化部長さんから、およそ2年後に開催される長野パラリンピックで日本パラノルディックチームのヘッドコーチを引き受ける気はないか、と誘われたのだ。

人生はいつも選択の連続だけれど、ごくたまに予期せぬ方へと進行方向が大きく変わる選択がある。強化部長さんからのオファーに首を縦に振ったところから、荒井さんの見る日常の景色は一転し始めた。

選手不足、予算不足、時間不足、荒井さんがそのポジションを引き受けた時、彼には何もかも足りなかったそうだ。でも彼は、自らに備わった全てのエネルギーをパラノルディックスキーの発展に注ぎ続けた。

詳しくはFOCUSに描かれた彼の半生を読んでいただきたいが、一言で表現すれば荒井さんは「情熱」の人だ。そしてそのとんでもない「情熱」は、数え切れない奇跡的な出会いを彼にもたらしてきた。いや、正確に言うと、その「情熱」の力で、彼はそれらの出会いを自ら手に入れてきた。

健常者として生きようとしていた新田佳浩という少年をパラの世界に引っ張り込み、金メダリストを誕生させたのもその「情熱」だし、とある結婚式の帰りの列車の中で、たまたま隣に座った老紳士(彼もその結婚式に参加していた)を通じて、日本のパラスポーツ史上初めての実業団チームを立ち上げられたのもその「情熱」のお陰だった。

もちろん、全てがいつもうまくいったわけではない。実際、長野パラリンピックの直後から、多くのスポンサーが離れていった時期だってある。結果が出せなかった時期もある。

そういう時はさぞかし大変だったでしょうね?

その問いに荒井さんは微笑んで答える。いえいえ、楽しかったですよ。だって、一つ一つ問題を解決してゆけば、みんなが喜べる世界を作っていけるわけですから。

写真・文

近藤篤

ATSUSHI KONDO

1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。



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