スポーツチャレンジ賞

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荒井秀樹

日本代表チームヘッドコーチ就任

話は20年ほど先へと飛ぶ。

1995年秋のことだった。
パラノルディックの日本代表チームのヘッドコーチをやってみないか?
荒井は所属していた東京都スキー連盟のノルディックスキー強化部長からそう打診される。長野で開催される冬季パラリンピックは2年後に迫っていた。

中央大学を卒業後、荒井は東京都の江東区に公務員の職を得た。彼は若い頃から人が好きで、人に好かれる男だった。大学時代から住んでいた江東区での人脈の広さを生かし、区内の様々な問題に取り組み解決していった。荒井くんがそういうのなら、人々は彼の意見に耳を傾けてくれ、そして彼も人々の意見に耳を傾けた。仕事のできる若者だった。

一方、スキーの方は大学時代同様、東京都スキー連盟に所属し、一競技者として国体などの大会に出場しつつ、中学や高校の外部コーチとして若手の育成にも尽力していた。

当時荒井はちょうど40歳だった。その数年前には東京都スキー連盟の専門委員にも就任しており、いずれスキー連盟の強化部長を引き受けることになるだろう、と思ってはいた。誰もが別に本職を持ち、忙しい中でスキー連盟の仕事をほぼボランティアとしてこなしていた。

パラリンピックの代表チームヘッドコーチについて、具体的なイメージは浮かばなかった。大変そうだけれど、面白そうでもあった。申し出は意外だったが、荒井は引き受けることにする。知らない世界に対する躊躇よりも、興味の方が強かった。彼の中のスイッチがオンに入った。

しかし、いざ現場での作業を始めてみると、それは大変そうどころの騒ぎではなく、まさにゼロからの出発だった。

「大会は2年後に迫っているのに、その大会に参加する選手そのものがいないんですから」

日本パラリンピックノルディックスキーチームは、名前ばかりで未だなんの実態も伴わない存在だった。ヘッドコーチに就任してチームを率いようにも、そのチーム自体がなかった。

1996年7月長野パラリンピックに向けた強化合宿

「あの頃、パラリンピックという存在を知っていた人自体、まだほとんどいなかったんですよね。1994年のリレハンメルオリンピックで日本チームが活躍して、4年後の長野での冬季オリンピックの方にはかなりの期待感があったんです。でも、そのオリンピックのすぐ後に長野でパラリンピックが開かれるなんて、メディアですら知らなかった」

当時パラの管轄省庁だった厚生省(現・厚生労働省)を通じて、全国規模で長野パラリンピックを目指したい選手の公募が始まった。長野と札幌で行われた強化選手選考会に集まったのは、およそ60名のパラアスリートたちだったが、正直なところこれはいけるという人材は見当たらなかった。中には、ノルディックスキーだと説明しているにもかかわらず、アルペンスキーの板を担いで現れる志願者もいた。

このままでは、国内初めてのパラリンピックで日本ノルディックスキーチームが満足のゆく結果を残す可能性は、限りなくゼロに近かった。にもかかわらず、何も状況を把握していない関係者の中には、ところで荒井さん、メダルは何個くらいとれそうですかね?と呑気に聞いてくる者もいた。

当時の状況を思い出しながら、荒井は苦笑する。

「まあ大変と言えば大変だったんですが、引き受けたからにはやるしかない。とにかく、スターになれる選手を探そうって思いました。強い選手、みんなが憧れるような選手さえ現れれば、その選手の活躍に刺激を受けた新しい力がまた入ってきますから」

<次のページへ続く>



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