スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

HIDEKI ARAI × YOSHIHIRO NITTA
【対談】荒井秀樹 × 新田佳浩

日本パラリンピックノルディックスキーチーム監督荒井秀樹と、パラノルディックスキー界のトップスキーヤー新田佳浩。二人の出会いは1996年、長野パラリンピックの2年前に遡る。以来23年、ともに力を合わせてパラノルディックスキーの普及と発展に力を注いできた二人に、出会い、苦労、成功、そして今とこれからのパラノルディックスキーについて語ってもらった。

新田今回の受賞、本当におめでとうございます。長い時間をかけて荒井さんが情熱を持って積み重ねてきたこと、それがようやく認められ評価されたんだと、心から喜んでいます。そしてこれからもより障がい者スポーツの世界、あるいは障がい者の人々が自分の行動が世の中の役に立ってるんだな、って思えるような世界を、ともに作っていければいいなと思っています。

荒井ありがとう。縁の下の力持ちにフォーカスするという賞をいただけたこと、本当に喜んでいます。表彰式の後、たくさんの人から「良い賞をいただけましたね」という祝福の言葉をいただきました。改めてヤマハ発動機スポーツ振興財団の皆様にはお礼の言葉を述べさせていただきたいと思います。そして、私とともに歩んできてくれた選手、スタッフ、特に長野でのパラリンピック以来、20年以上ともに頑張ってきてくれた新田選手とこうして喜びを分かち合えることはとても感慨深いですね。

YMFSお二人の出会いはその長野パラリンピックからさらに2年前、当時荒井さんは日本パラリンピックノルディックスキーチームのヘッドコーチに就任されたばかりでした。

荒井そうです。本大会にこのままで出場できるのか、と心配になるくらい、実力のある選手がいませんでした。そんな時、ある関係者の方が、全国中学生スキー大会で片腕の少年スキーヤーを見たことがある、と思い出してくれたんですよ。そこから必死になって新田君をなんとか探し出しました。

新田僕は小学生の時、祖父が運転していた農業機械の事故で左腕を失ってしまったんです。でも、祖父の心に負担をかけないよう、我が家では僕をあくまでも健常者として育てていました。僕自身、自分が障がい者だと思ったことは一度もありません。修学旅行で神戸に行った時、港のところで困っていた車椅子の方に、お手伝いしましょうか、と声をかけたら、修学旅行は団体行動なんだから勝手に動いてはいけません、って先生に叱られたくらいですから、笑。

YMFSそこにある日突然荒井さんが現れて、パラリンピックに出てみないか、となったわけですね。

新田実は荒井さんが現れた時、僕は一度ノルディックスキーをやめていた時期だったんです。かつては僕よりも遅かった健常者の仲間に、だんだんと勝てなくなってきて。努力は人を裏切らない、って言葉があるじゃないですか。でも、その当時は、努力にすら裏切られているような気がしていました。

荒井岡山県スキー連盟の方から彼の情報を教えていただいた時、新田君はもうスキーをやめちゃったんだよね、って知らされていたんです。でも、私は大丈夫、絶対その少年をもう一度スキーの世界へ戻すことができるって確信していましたよ。そういうことってよくあるんです。だから新田君に会いに行って、まずパラリンピックの映像を見てもらったんです。

新田パラリンピックは決して弱者のスポーツではないんですよ。荒井さんがその時口にした言葉は忘れられないですね。僕自身まだパラリンピックという言葉すら知らなかったのですが、実際に映像を見ると、僕と同じように障害がある選手たちが、信じられないスピードで走っていました。その時、この人たちと会ってみたいな、いろんな言い訳をつけて逃げ出した世界にもう一度戻ってみようかな、と思ったんです。

<次のページへ続く>



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