スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

荒井秀樹

チーム アウローラ

長野でのパラリンピック自国開催はなんとか無事に乗り越えたものの、荒井にとってパラの世界でのチャレンジはまだ始まったばかりだった。

1999年、日本のバブル経済が一気に弾けた後、社会情勢は急速に悪化していく。長野の前に創刊されたパラスポーツを扱う雑誌は次々に閉刊し、メディアは全く相手にしてくれなくなり、援助してくれていた企業も一つまた一つと手を引いていった。

4年後、アメリカのソルトレイクシティで開催されたパラリンピックで、日本チームは全く結果を残せなかった。
わずか4年の間に、パラの世界は大きく変わりつつあった。荒井が一番驚かされたのは、外国の選手たちはすでにスポンサーからの援助を受けるプロのアスリートとして大会に挑んでいたことだった。
一方日本チームに目を向けると、選手たちの多くは長野パラリンピックへの準備のために仕事をやめ、アルバイトでなんとか競技生活を続けている者も多かった。練習と大会のための自由な時間を手にしたければ、どこかの企業の正社員としては働けなかった。加えて、自分の活動費だけではない、ガイドのための渡航費や滞在費まで、彼らはそのバイト生活の中でなんとか捻出しなければならなかった。生活してゆくことで精一杯の状況で、いい結果を出せるわけもない。

この状況をどうすれば打開できるのだろうか。
当時の彼は、実業団チームという日本特有の制度をなんとかパラの世界にも持ち込めないだろうか、と考えていた。

本物の情熱は、まるで磁石のように人を引き寄せてゆく。

その出会いは、2004年の6月のある日、妙高高原から長野市に向かうローカル線の車内で起こった。

荒井はその日妙高高原のホテルで催された知人の結婚式を終え、長野行きの列車の中に座っていた。4人掛けの対面シートにはそれぞれ見知らぬ乗客が座っていたので、彼は扉付近の2人がけのシートに腰を下ろし、発車時刻を待っていた。

発車間際、一人の老紳士が乗り込んでくると、荒井の隣に腰を下ろした。見ると、知人の挙式と同じ引き出物の袋を持っている。そのことに相手も気づき、そこから二人の会話が始まった。
荒井は簡単な自己紹介を済ませた後、彼に対してパラリンピックがいかに素晴らしいものであるかについて、失ったものではなく今あるもので道を切り開いてゆこうとするパラアスリートたちの精神について、語った。
一方渡部と名乗ったその老紳士は、日立システムアンドサービス(現・日立ソリューションズ)というシステム会社の監査役を務めているとのことだった。
2部上場してまだ間もなく、出向先の企業に常駐して働くエンジニアも多い。会社としては、社員の気持ちが一つになるもの、そして精神的に疲弊している社員たちを元気にしてくれるもの、を探している、そんな話をした。

ローカル線は1時間ほどで長野駅につき、二人はそこで名刺を交換し別れた。しかし二人の交わした会話はそこから一気に加速し、その年の11月、日立システムアンドサービスに日本で初めてのパラスポーツ実業団チームが誕生する。

チーム名は「チームAURORA(アウローラ)」、その単語はイタリア語で夜明けを意味し、ラテン語では曙の女神を意味する。
アウローラの誕生によって、選手たちは財政的な基盤をしっかりと持ち、トレーニングに集中できる環境を手に入れることができた。会社にとっては、シンボルとしてのスポーツチームを通じ、社員の心をつなぎ、一体感を与えてくれる存在ができ、且つ当時はまだ進んでいなかった障がい者の雇用も促進されることになった。チーム発足と同時に荒井は社員後援会の結成を依頼し、その入会率、社員の応援の数をチームへの評価として判断してほしい旨を伝えた。同時に、ジュニアチームも発足させ、次世代の育成につながる環境づくりにも着手した。

日立システムスキー部後援会主催の社内壮行会

写真左より:日立システムスキー部顧問渡部勤氏、井口深雪選手とともに


「もしこのチームアウローラが存在していなかったら、私も、新田も、あるいは他の選手も、ノルディックスキー競技を続けられてはいませんでした」

荒井が言うように、このチームの誕生はまさに夜明けの光をパラノルディックスキーの世界へもたらした。

<次のページへ続く>



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