
ガイドランナーの第一人者として
競技力向上と、伴走文化の浸透・拡大を牽引
ともに走り、路面の状況や方向、さらにはレース展開等を伝えるガイドランナー(伴走者)は、視覚障害のあるランナーにとって、安全に、より速く、より楽しく走るための「目」の役割を担う。国内外で豊富な経験をもつ安田享平氏は、その第一人者として長年にわたり、トップアスリートや指導者の育成、さらには市民ランナーへの普及・振興活動などに尽力している。
市民ランナーとして長距離走に親しみながら、1989年に千葉県代表選手として青東駅伝大会に出場。また、1991年には千葉県選手権マラソン大会にも出場し、初マラソンで初優勝を飾った。これらの活躍が認められ、勤務先の新日鐵君津製鐵所(千葉)からただ一人、当時の新日鐵八幡陸上部(福岡)に加入し、実業団選手としてニューイヤー駅伝にも出場している。
1996年、指導を仰いだ順天堂大学陸上部の澤木啓祐監督から指名を受け、アトランタパラリンピックのマラソン競技(視覚障害クラス)に出場する柳川春己選手のガイドランナーを務めることになった。日本盲人マラソン協会(現・日本ブラインドマラソン協会)の理事でもあった澤木監督は、「メダル獲得にはフルマラソンで2時間20分を切るガイドランナーが必要」と考えていたことから、実業団ランナーとして頭角を顕し始めていた安田氏に白羽の矢が立った。
当時は、視覚障害者に対する理解や認識もなく、「パラリンピックという大会も、どこかで聞いたことがある程度だった」(安田氏)。もちろん伴走者としての技術やノウハウは一切なく、伴走ロープ(テザー)をうまく扱えなかったことから、初めて走ったトラック競技の大会では二人で手を繋いで走っている。それでも柳川選手は5000mで日本新を記録して優勝した。
以来、勤務地の千葉と柳川選手の拠点である佐賀を往復し、 トレーニングを重ねることで伴走技術と信頼を高めていった。また、競技ランナーとしての経験を背景に、勝つための技術、戦略、心構え等を積極的に伝えていった結果、わずか3か月間の急増コンビでありながら、柳川選手はアトランタパラリンピックで念願の金メダルを獲得した。さらに2000年シドニーパラリンピックでも44歳になった柳川選手を6位に導き、2004年アテネパラリンピックでは福原良英選手をガイドして 4 位に入賞している。
パラリンピック3大会で積み上げた豊富な経験・知見を背景に、2008年には北京パラリンピックに臨む視覚障害マラソン日本代表コーチに就任。伴走技術の体系化に取り組み、以来18年にわたって指導者として日本チームの強化を牽引し、現在は日本ブラインドマラソン協会で強化委員長を務めている。
強化委員長としてトップランナーの強化計画を策定・推進する一方、ブラインドランナーとともに走る「伴走文化」を定着させるための普及・振興活動にも積極的に取り組んでいる。市民ランナーに伴走体験の機会を提供する「ガイドランナー体験教室」を各地で開催するとともに、指導者育成を目的とした「ガイドランナー養成者研修」等を実施。合わせて、共生社会の形成に貢献するため教育現場で講演を行うなど、パラアスリートから市民ランナー、また広く社会に向けて全方位の取り組みを展開し、伴走文化の拡大・定着に尽力している。
ブラインドマラソンに取り組む視覚障害者は、全国で広がりを見せている。そうしたランナーたちは、レース当日だけでなく、日々のトレーニングでもガイドランナーを必要とする。そうした背景の中、ガイドランナー人口も確実に拡大しており、各地域の市民マラソン大会でも、伴走ロープを手にしたランナーの姿を目にする機会が拡がっている。

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