スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

妻木充法
FOCUS
MITSUNORI TSUMAKI
妻木充法の足跡

「淡々と、人を、癒す」

そして2002年、日韓W杯

2001年、妻木は日本サッカー協会から、日韓コンフェデレーションズカップに参加する審判のケアを担当するメディカルチームへの参加を要請され、続く2002年、日本と韓国で開催されたW杯にも同じ立場で参加することになる。

「1982年のW杯を私は現地スペインで見ているんです。何万人もの人々が熱狂して、心臓マヒで倒れる人までいて。この大会に日本が参加できるなんて絶対にないよなあ、って私は思っていました。だから、日本でW杯開催が決まったこと自体、私にとっては奇跡的なことだったんです」

およそ40日間、妻木は数人のトレーナーたちとともに、様々な国からきた様々な肌と様々な文化を背景に持つレフェリーたちの身体をケアした。練習前に必ず強めのお酒を一杯ひっかけてゆく北欧人、大会期間中にラマダン(断食)に入ったイスラム教徒、クールダウンでプールに集合したら、ブリーフ姿で現れたアフリカのレフェリー。審判を通じて世界を知る、そんな日々だった。

今現在、FIFA審判部はフィジカル、テクニカル、メディカルの三部門に分かれ、審判のパフォーマンスを最大限に引き出すシステムが確立されているが、2002年当時、まだメディカル部門は存在しなかった。それでも妻木は目の前の診療台に横たわるレフェリーの肉体と精神に集中し、精一杯の治療を施していった。

よほど妻木の治療が気に入ったのだろう。決勝戦の笛を吹くことに決まったイタリア人の名審判ピエール・ルイジ・コッリーナは、当日は審判控え室まで入ってほしい、と妻木に要請する。2002年6月30日、世界中のサッカー選手、審判、あるいはファンたちが夢見る舞台は、妻木充法の目と鼻の先にあった。

<次のページへ続く>



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