スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

妻木充法
FOCUS
MITSUNORI TSUMAKI
妻木充法の足跡

「淡々と、人を、癒す」

単身、ドイツ・ブンデスリーガへ

1988年2月、妻木充法は日本代表の仕事を離れ、ドイツへ渡る。代表チームのトレーナーとして働き始めて9年。その間チームは際立った結果を出せず、自分自身もマンネリ化した仕事のやり方に限界を感じていた。

その2年前、日本代表がドイツ遠征を行った際、彼に声をかけてくれたベルダーブレーメンというサッカークラブのGMのことを、妻木はふと思い出した。もしウチの仕事に興味があるなら、いつでも顔を出してくれていい。

「当時ブンデスリーガは世界最高峰のリーグです。見るもの聞くもの、すべてが新鮮な驚きでしたね。シューズはピカピカ、洗濯は専門の人がやってくれ、選手の部屋は個室。日本代表は大部屋で雑魚寝、洗濯はみんな自分でやっていましたから」

妻木がブレーメンに着いたのはシーズンの後半戦半ばだった。そこからシーズン終了まで、彼はアシスタントトレーナーとして、選手たちの肉体の治療や回復に携わる。

彼がチームに加わった3ヶ月後、ブレーメンはリーグ優勝を果たした。しかし、翌シーズンに向けて契約の話はいつまで経っても始まらず、優勝からずいぶんと時間が過ぎた初夏のある日、クラブのGMは申し訳なさそうに妻木に告げる。悪いけれど、君と契約は出来ない。日本の鍼灸師の免許ではドイツでは働けないんだ。

不退転の決意で臨んだドイツでの挑戦は、あっけなく幕を閉じてしまった。航空券も片道分しか購入していない。途方に暮れる妻木を励ましてくれたのは、現地在住の日本人音楽家夫妻を通じて知り合った1人のドイツ人だった。彼は妻木の置かれた状況を聞くと、自らブレーメンのオフィスまで足を運び、妻木の権利についてクラブと交渉してくれたのだ。結果、妻木には数ヶ月分のサラリーと、日本までの航空券代が支払われることになる。

「あれは心にしみましたね。ドイツにもこういう人がいるんだなって。その人と、音楽夫妻と、僕の4人で、ドイツを発つ数日前に小さな公園でお別れパーティを開いたんです、みんなで美味しい白ワイン飲みながら。そのとき彼がね、ギーター弾きながら言った言葉は、今でも忘れませんね」

Money is not everything.

日本初のプロリーグ誕生

帰国後、妻木は松下電器サッカー部に職を得る。Jリーグの誕生は徐々に現実的になり、JSL、日本サッカーリーグの動きは活発化していた。

ドイツでのショックはまだ癒えていなかったが、妻木の中には新たなことへ取り組もうとする意欲が生まれつつあった。松下電器サッカー部(のちのガンバ大阪)で働くことを決意した妻木は、大阪府交野市に新居を購入する。

ところがその後、松下電器はJリーグには参加しない旨を表明する。バレー部、陸上部、様々な活動を持つ松下としては、サッカー部だけを特別扱いできない、それが日本初のプロリーグ不参加の理由だった。

ショックだった。妻木には、長年サッカーに携り、たとえ数ヶ月とは言え、本場で仕事を経験しているのは自分だけだ、と言う自負もあった。

そんな彼に、今度は古河電工(後のジェフユナイテッド千葉)から声がかかる。早々にJリーグ参戦を決めていた古河も、プロ選手の肉体を任せるに値する優秀なトレーナーを探していた。チームの監督は清雲栄純、かつて日本代表で共に戦った仲間だった。

松下に不義をはたらくことは心苦く、悩みに悩んだが、どう考えても、プロリーグの誕生に参加しないことはあり得なかった。妻木は関係者に丁重に詫び、大阪の地を離れることにする。

<次のページへ続く>



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