スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

日本スケート連盟 スピードスケート科学サポートチーム

科学サポートを活用した選手強化への取り組み

科学サポートチームのチーム統括として、競技現場と科学者との間をこの数年間繋いできた紅楳英信は、当時のことを思い出して苦笑する。

「2015年、ヨハンがヘッドコーチに就任した当初、我々日本人スタッフを全く信じてくれていなかったのは、見ていてわかりましたよ。それまで私たちが行っていた選手の体力測定も、オランダ人スタッフだけで、しかもオランダでやる、とか言い始めて」

紅楳が日本スケート連盟の科学スタッフとして働き始めたのは2007年のことだ。その年、前述したように日本スピードスケートはトリノ大会でメダルゼロに終わる。大会後、同連盟の新会長に就任した橋本聖子は改革の一案として科学部門の強化を指示した。それまで同連盟内に1人しかいなかった科学部門スタッフの増員が決まり、その候補の一人として紅楳にも声がかかった。

「元々私は高校まで陸上の中距離をやっていたんですよ。スピードスケートに出会ったのは遅くて、大学に入学して数ヶ月たったころでした」

筑波大学工学基礎学類に入学後、新しいスポーツにチャレンジしたかった紅楳はアイススケート部のドアをノックする。当時の筑波大学アイススケート部には国体出場クラスの選手も数名いたが、同時にやる気さえあればほぼ素人の学生でも受け入れてくれる、そんな環境があった。

大学を卒業すると、都内のスポーツ器具関連の会社に就職。2年間の会社勤めを経て、筑波大学に戻り大学院でスポーツ社会学を修めた後、茨城県体育協会に嘱託として職を得た。この頃同県の国体スケートチームの監督を務めた経験もある。

日本スケート連盟の科学部門に居場所を見つけた紅楳は、まず情報戦略部門に配属された。

「簡単に言えば、競技団体が科学サポートを活用しながら選手強化してゆくためのコーディネーター役です。あるいは、参謀役、と言っても良いかもしれませんね。そこからおよそ10年間、現場での様々な経験を経て、2014年に今の立場、科学サポートチームの統括役を任されることになりました」

科学サポートチームが提供するデータは多岐にわたる。現場からのリクエストに基づいて、100mごとの平均速度の変化、レース後の血中乳酸濃度、リンク上のどこを滑ったかという滑走軌跡、あるいは映像をフィードバックし、過去と現在のフォームの変化を可視化することもある。

就任からおよそ6ヶ月、オランダからやってきた新ヘッドコーチは、紅楳ら日本人の科学サポートチームの仕事ぶりをようやく信頼してくれるようになってくる。それに従って、紅楳がヨハンと会話し議論する機会も増えていった。

「今回の受賞で評価していただいたチームパシュートに関して言えば、半周ごとのラップタイムの推移や、長野オリンピックのスピードスケート会場だったスケートリンク、エムウェーブの天井に設置されたカメラシステム(28台のカメラが選手の軌跡とスビードを記録してゆくシステム)を使って計測した、隊列の軌跡、先頭交代による速度変化、そう言った数字とそこから得られた科学的な知見をヘッドコーチに伝えました」

ヨハンは科学サポートチームの提供するデータや分析あるいは意見に耳を傾け、活用もしてくれたが、彼と会話するタイミングに関してだけは、常に細心の注意を払っていたと紅楳は言う。

「ヘッドコーチだけではなく、選手についてもそうなのですが、彼らが落ち着いている時、話を聞こうとしている時を見計らって、こちらの伝えたいテーマ、大切だと思っているテーマを話すんです。いくら客観的なデータや分析に基づいた科学の話とはいえ、タイミングを見誤ると、伝わる話も伝わらなくなってしまいますから」

<次のページへ続く>



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