スポーツチャレンジ賞

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日本スケート連盟 スピードスケート科学サポートチーム

ソチオリンピックでの惨敗、その後

黒岩はかつて日本スピードスケート界のエースとして活躍し、カルガリーオリンピックで銅メダル(日本人選手として史上2人目のメダリスト)、世界スプリント選手権では2度の金メダルに輝いている。

そんなキャリアの持ち主が口にした惨敗という言葉は大げさなものではない。

メダルゼロ、入賞は4。2014年2月のソチオリンピックで、日本スピードスケート界はかつてないどん底を味わった。五輪でのメダルゼロという結果は、これまでの日本スピードスケート史の中でなかったわけではない。ソチ大会から8年前のトリノ大会でも、日本はメダルゼロに終わっている。

それまで日本のスピードスケート界を牽引してきた実業団チームが、バブル崩壊以降、他のアマチュアスポーツ同様に予算の削減を余儀なくされた。解散したチームもあれば、予算規模を縮小して継続したチームもあったが、そういう中途半端な状況の中で競技を続けてきた結果がソチ大会だった。

ソチ大会での惨敗を真摯に受け止めた日本スケート連盟は、新たに湯田淳をスピードスケート強化部長に迎え、組織の再編、改革に真剣に取りかかる。その取り組みは多岐に渡ったが、特筆すべき点は2つだろうか。

一つ目は、ナショナルチームの常設に着手したことだ。意外に思われる方も多いだろうが、実は日本のスピードスケートの世界ではそれまで、年間を通じて定期的に行われるナショナルチームの活動というものはなかった(選手の強化は実業団、あるいは大学が各々のチーム内で担っていた)。

ナショナルチームの常設には、2006年のトリノ大会から五輪正式種目に採用されたチームパシュートでメダルを獲得するという目的もあった。パシュートがチームで争われる以上、選手たちが空間と時間の両方をできるだけ長い時間共有できる場は絶対的に必要だった。

二つ目は、そのナショナルチームのヘッドコーチとして新進気鋭のオランダ人指導者、ヨハン・デビットを招聘したことだ。選手としてはほぼ無名だった人物だが、コーチとしてのヨハンはすでにスケート大国オランダで頭角を現し、高い評価を受けていた。データを重んじ、独自のトレーニング理論を持った、選手との対話を重視するまだ年若き外国人コーチに、日本スピードスケート界は再生の舵取りを委ねることに決めた。

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