第7回 YMFSスポーツ・チャレンジャーズ・ミーティング

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基調講演

日時 3月14日(金) 17:45〜18:15
講演者 浅見 俊雄
公益財団法人ヤマハ発動機スポーツ振興財団 理事・スポーツチャレンジ助成 審査委員長、東京大学・日本体育大学名誉教授、日本サッカー協会顧問
演題 道に迷ったら、壁に当たったら
講演概要 今回のテーマは、今年度の中間報告会で討論のテーマとして取り上げたものである。それぞれのチャレンジの過程で、道に迷ったり壁にぶち当たった時に、各人がどういうやり方でそれを克服してきたかを議論し合ったものだった。今回の基調講演で、それのまとめ的なこと、あるいはその議論をもとに何か私としての方向性というか、結論的なことを語れというのが、事務局から私への要望なのだろうと思っている。
ところが、講演のレジュメを書くためにいろいろ考えているうちに、私自身が話の道筋をどうするかで迷ってしまい、壁にさえぎられて前へ進めないでいるうちに、原稿の締切日になってしまったのである。
中間報告会で議論しているときも、何かすっきりしない思いもあり、毎回の議論の後の司会者としてのまとめの中では、道に迷ったらスマホで探せなどといっていたのだが、基調講演で語るとなると、冗談でごまかすわけにはいかない。
あとわずかな期間ですっきりした内容にしなければいけないのだが、ようやく少し先が見えてきたのは、このテーマがアスリートとして、あるいは研究者として世界に羽ばたこうとしているYMFSのチャレンジャーにとっては、果たして適切なテーマだったのかどうかという疑問を持ったからである。
まずテーマのキーワードである道とは何か、壁とは何かから始めて、講演日までには行きつく先を探し出さなければならないと思っている。

演題:道に迷ったら、壁に当たったら

道は切り拓くもの、壁はぶち破るもの。
正々堂々、フェアプレーでチャレンジしていこう!

道なき道をゆくチャレンジャーが迷うはずなどない

基調講演はこれで3回目なんです。1回目の「スポーツってなんだろう」と、2回目の「チャレンジってなんだろう」についてはわりと迷わずに話せたのですが、今回の「道に迷ったら、壁に当たったら」というのは、どうもなんかピンとこない。本当に議論のテーマとしてふさわしいのか? という迷いの気持ちになっています。

このテーマについては中間報告会の座談会でも取り上げてきて、それなりに有意義だったとは思ってます。しかし、総括の段階になるとなかなかまとめられなくて、「道に迷ったらスマホを見ろ」なんてごまかしてきたんですよね。でも、今日はそのごまかしが通じないので正直なところ困ってます。

本題に入る前に「夢・志」について話していきましょうか。皆さんがこの助成に応募したときや、中間報告をする時にも、必ずこの「夢・志を書け」という欄がありましたよね。このうちの「夢」という言葉に、私はある疑問を持ったんです。「私の夢は○○です」っていうあれです。たとえば「お金持ちと結婚したい」というのならそれはそれでいいけれど、「私の夢は、オリンピックに出てメダルを取ることです」となると、それが現実の目標になるのかというと、そうはならないと思います。

こういう時、私はいつも字引に頼る。「夢」という言葉はそもそも何を表しているか。「夢」というのは、この辞書によると「はかないものに例える。うつつとは違う」。つまり、「夢」というのはあくまでも現実じゃない。「夢か、うつつか、幻か」なんて言葉がありますが、少なくとも皆さんの場合は現実の「目標」じゃなきゃいけないわけですね。

また『漢字源』によると、「夢」という字は「ヒツジの赤くただれた目の上に、長いまつげが伸びている様子」ということらしいです。「ヒツジの赤くただれた目」というのは、この上の部分、たとえば「蔑」という字もこれを使っています。下の「タ」の字は夕方の夕ですから、夜ですね。夜、赤くなったよく見えない目で見るものというような意味なのかもしれません。

それからもう一つ、『広辞苑』によりますと、「睡眠中に持つ幻覚。普通、目覚めた後に意識される」って書いてあるんですけれど、最初の意味が「多く視覚的な性質を帯びるが、聴覚・味覚・運動感覚に関するものもある」で、二番目は「はかない、頼みがたいもののたとえ」、さらに「空想的な願望。心のまよい」と続いて、最後に「将来実現したい願い」とあります。だから、みんなが「夢」と書いてオリンピックに出たいというのは、夢の中では一番下位にある意味なんですよね。ちょっと、びっくりするでしょう。ですから「夢」と言っているうちは、しっかりした目標を立てて、それに向かって進んでいくということにはならないと思います。

さて「志」のほうは、上の士はさむらいですね。士は「進み行く足の形が変形したもので、行くと同じ」。どこかに向かって行くということなんですね。そして心が下にある。つまり意志ですよね。これからもわかるように、こちらのほうが目標に向かって強い意志で進んでいくことなんです。

余談ですが、東京オリンピックのサッカー競技で、長沼健さんという方が監督になって「みんな、志を持とう」と選手たちに語りかけました。「志」という字をよく見ると、十一の心ってあるからです。11人が一つの目標に向かって心を合わせていこうと長沼さんは言ったんです。東京オリンピックやメキシコオリンピックに出た選手は、「志の会」という集まりを今も続けています。ともかく、チャレンジャーには強い意志を持って目標に向かっていくという気持ちがなければいけないということで、ちょっと前振りが長くなりましたがこんな話をさせてもらいました。

そろそろ本題に入りましょう。「志」に向かっていく途中で「道に迷ったら、壁に当たったら」ということが本日のテーマです。じゃあ、その「道」というのは、どういう意味か。しんにゅうに首。しんにゅうはどういう意味かというと、「道路を歩行する、の意味。道を歩くことに関する意味を表す」とあります。首がついているのは、首をまっすぐ向けてある方向に歩いていくという意味があるわけです。

スポーツを始めたばかりの初心者が歩いていくには、そういう、すでに人が切り拓いて作ってくれた道、確かな広い道を歩いていけばいい。研究者もそうですね。高校とか大学の過程では、ともかくそういう基礎の理論、もうすでに分かりきっている道をきちんと歩いていけばいいんです。ところが、オリンピックとかパラリンピックとか、あるいは、国際的な学会でしかるべき発表をするとか、論文を書いて国際誌に投稿するということになると、ミチ(未知)の領域に入っていくわけです。未知のことに挑戦していくのが研究者でありアスリートで、皆さんはそのようなレベルにあるわけです。

とすると、そんな切り拓かれた道はないんですよ。もう行き詰まっちゃって、そこから先は何人かが通った細い道ならあるかもしれないけれども、それもどこかで必ずなくなっちゃうはずなんですよね。ですから、だれも歩んでいないところに道をつけていくのが、皆さんの役割ということになる。違う言い方をすれば、皆さんのように道なき道を行く人たちは、迷うはずがない。そうですよね、道がないんですから。

それでも、どうしても進めなかったら、しょうがない、引き返せばいいと私は思います。そして、また別の道を探していけばいい。未踏の頂に挑む登山家だって、こっちに行ってみたけど駄目だったから、別のルートを探して登頂をめざすという方法をとるのですから。また皆さんの場合は、めざす頂が一つじゃなくてもいい。ここまで来たけれど、そこから先は別の方向に行ってみるというのもあり得ることだと思います。

道は自分で切り拓いていくもの。既存の道に頼って進むのは、選手や研究者らしいことに目を向けだしたばかりの人たちがやるべきことであって、皆さんがやることではない。それくらいの強い「志」を持ってことにあたってほしいと思います。


「ずるさ」や「悪さ」でなく、「フェアプレー」で克服しよう

一方で、壁というのは、これも字引に頼ると「家の外を取り巻く長い塀に対して、薄く平らなついたて式の中庭の壁をいい、後、家の内外の平らな壁をいう」とか、「敵を防ぐために築いた防壁」とか、「壁のように平らな、そそりたったがけ。絶壁」とあります。けれども、壁の原字は璧なんですね。この「璧」の意味は、「薄く平らに磨いた玉」「表面が平らで、薄い意を含む」「薄く平らな壁」。つまり、皆さんが思い込んでいるほど、壁というのは強くて固いものではないんです。壁なんて薄いものだから、自分からぶち破っていけ! という教訓なのかもしれません。

「壁に当たる」の「当」という字は、「対象に向かって直進し、対象がそれに対応するショックや反応を起こすような作用をいう」という意味です。だから、ぶつかれば、もちろんショックはあるけれども、当たって砕けろということで、真っ正面から行くというのも一つの解決方法なんだろうと思います。皆さんぐらいの強い意志と能力を持った人なら、ぶち破れないものではない。要するに、道は自分で切り拓いていくもの、それから、壁は思い切ってぶつかってぶち破れというのが、私の結論です。

ただし、その時に、ずるい方法や悪い方法は、それは取るべきでない。そういう、抜け道はやるべきではないと思います。ずるさや悪さでこれを克服しようと思ったら、それは間違い。アスリートにとっても、研究者にとっても同じです。研究者には、ある時そういう誘惑があるんですよね。未知のことに向かっていく時、これをちょっとこうすればいい論文が書けるという瞬間が確かにあるんです。私なんかも人間を扱う研究でしたから、20人なら20人の被験者に対する測定値で、この一つの点がなければすごくいい結果なんだけどというのが出てくると、その一つの点を捨てたくなっちゃうんですよね。こういう時に、本当に捨ててもいい測定上のミスがあったとか、被験者が本気じゃなかったとか、そういう吟味はしなければいけないけれども、初めからこの点なしでいこうというのは、道は道でも邪道です。

人間の真実へたどり着く行き方というのは、スポーツで言えばフェアプレーに象徴されると思いますし、研究者にとっても、それは言える。「正々堂々と」という宣誓をするわけですけれども、どんな壁に当たっても、道を切り拓くにしろ、そのことを根本に置かなければいけないことです。

スポーツ界ではドーピングが非常に問題になっているし、これは研究者にとっても言えることです。身体の中でうまく作用するこの物質を使えばアスリートは強くなるという単純な考えで、もしそれがドーピングに引っかかってしまうことになれば、試した選手にとっても、それをさせた研究者にとっても大きなマイナスです。ですから、真理の探求にしろ、成績や記録の追求にしろ、それはやっぱり正々堂々とフェアにいかなければならないということを最後にお伝えして終わりにします。ありがとうございました。


講演者

基調講演
プロフィール

浅見 俊雄(あさみ としお)
公益財団法人ヤマハ発動機スポーツ振興財団 理事・スポーツチャレンジ助成 審査委員長
東京大学・日本体育大学名誉教授、日本サッカー協会顧問

県立浦和高校でサッカー全国高校選手権大会優勝、東京大学では第1回サッカー全国大学選手権大会優勝など。卒業後はサッカーの審判員資格を取得、1959年に日本サッカー協会一級審判員、1961年に国際審判員。引退後はJFA審判委員長(1993年からはJリーグ審判委員長兼任)、中央教育審議会委員、国立スポーツ科学センター(JISS)センター長、アジアサッカー連盟 審判委員会・規律委員会副委員長などを歴任。