スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会 戦略広報部
FOCUS
THE TOKYO 2020 BID COMMITTEE COMMUNICATIONS DEPARTMENT
東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会 戦略広報部の足跡

もしそこに彼らの力なかりせば

戦略広報部 部長 鈴木德昭

2012年4月、髙谷の上司として戦略広報部のチーフディレクターの座に就いたのは、日本サッカー協会から出向という形で派遣されてきた鈴木德昭だった。

鈴木も髙谷と同様東京で生まれ、東京で育った。父は日立や慶応大学のサッカー部監督もつとめた高名なサッカー選手、自身も兄とともに優れたサッカー選手として青春時代を過ごしている。髙谷とは少し違って、鈴木はオリンピックではなくワールドカップを夢見て育ってきた。

度重なる怪我でサッカー選手の夢はついえたものの、日産自動車入社後はサッカー部の躍進を縁の下で支え、その後は日本サッカー協会に所属して日本代表を率いるハンス・オフトの仕事を補佐。黎明期にあった日本サッカーのプロ化に手を添えてきた。2002年のFIFAワールドカップの招致にも深く関わったキャリアも、戦略広報部 部長の職にふさわしい人物だった。

戦略広報部 部長就任を打診されたとき、鈴木はアジアサッカー連盟の要職に就いていたが、AFCでの任期を少し残したまま、招致委員会の仕事を引き受けることにした。

日本のために、サッカーのために、この二つのキーワードを軸としてこれまでの仕事に携わってきた鈴木にとっては、オリンピック・パラリンピック招致という仕事は己の目的にも叶っている大役に思えた。オリンピック・パラリンピックを呼ぶことで、この国に起こるであろうポジティブな可能性も明確にイメージすることができた。

写真提供:東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会

もし東京でオリンピック・パラリンピックが開催されたら?

それぞれの競技団体は明確な目標を持って強化することができる。

予選なしで大会に参加することができる。

間違いなく日本のスポーツ界は一段階上のレベルに到達できる。

強化のための対外試合が増え、それが多様な国際交流にもつながる。

開催国が決定されるIOC委員会まではあと2年。鈴木に与えられた時間はそう多くはない。オリンピック・パラリンピックに関する専門的な動きに関しては、髙谷を全面的に信頼し、彼の決定をバックアップすることを約束した(そしてその約束は最後まで守られた)。

IOCの規則では海外に向けての直接的なPRは翌年の1月7日まではできないことになっている。そこで鈴木はまず国内のいくつかの事案にターゲットを絞ることとした。

一つ目は社内戦略の統一だった。東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会は都庁の41階にあったが、同フロアには東京都の招致推進部も併存していた。お互い目的は同じなのだが、JOC会長と都知事をトップとする二つの組織はうまく情報や価値観を共有できていなかった。招致委員会内の横のつながりをスムーズにすることで、鈴木はさらなるダイナミズムが生まれると考えた。

41階にいる全員が認識すべき価値観、何のためにオリンピック・パラリンピックを東京で開催するのか、東京でオリンピック・パラリンピックを開催することに何の意義があるのか、どういう大会にしたいのか、そのことについてフロアで働く100数名の人間を集め、何度も何度もブレストを重ねることで、それぞれのメンバーが少しずつ共通の価値観をシェアできるようになっていった。ひとつひとつの事案に対して、各部署からかならず誰かが参加してのタスクフォースを構成し、情報の共有度を高めてもいった。

今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ。

後に我々が頻繁に目にすることになるコピーも、そういった理念の共有から生まれ出た。水野正人CEOの言葉を借りるなら、戦略広報部の最大の功績は、縦割りの組織だった招致委員会に一本の太い横串をさしたこと、になる。

<次のページへ続く>



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