スポーツチャレンジ賞




グルノーブル、そしてトロントへ

グルノーブル五輪にて(写真提供:樋口豊)
1968年の冬季五輪はフランスのグルノーブルで開催された。
この大会に、樋口は国内2位の成績で日本代表選手として選出された(1位は現在フィギュアスケートで活躍中の小塚祟彦の父、小塚嗣彦だった)。
まだ17歳の高校生だった樋口は、さほどオリンピックというものを意識してはいなかった。五輪出場を目指してスケートに打ち込んできたわけではないし、当時の冬季五輪は社会的にも今日ほどの盛り上がりを見せてはいなかった。オリンピック? ふーん、僕が出るの? そんな感じだった。
しかしながら、グルノーブル五輪は樋口にとってきわめて意義深い大会となる。
大会での成績は25位だったが、初めての海外、そして初めて間近で見る外国のトップ選手たちの滑りのクオリティーは、樋口の心に強烈なインパクトを与えた。
彼らと自分のスケーティングには根本的に異なる「なにか」があった。なにが違うんだろう? 17歳の少年は、その「なにか」について考え続けた。
帰国後、いや帰国前から、樋口の心はもう決まっていた。とりあえず大学に籍を置くことにはしたが、母親を説得し、ぎりぎりの予算でやってゆくことを条件に海外留学の承諾を得た。スケート連盟から強化費が出るような時代ではない。ある資産家が樋口に援助を申し出てくれたが、己の才能に確信を持てなかった彼はその申し出を丁重に断った。
行き先はカナダのトロント。グルノーブル五輪で仲良くなったデイヴィッド・マギリブレーが間に立ち、彼自身も所属するフィギュアスケート界名門中の名門、トロント・クリケット・スケーティング&カーリングクラブへの扉を開いてくれた。
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