スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

樋口豊
FOCUS
YUTAKA HIGUCHI
樋口豊の足跡

美しいスケートを求めて

2度目のオリンピック、引退、そして指導者として

1972年、トロントの美しい夏と厳しい冬を4度ずつ過ごした後、樋口は日本へ帰国し、2度目のオリンピックである札幌五輪への出場を果たす。

グルノーブルのときとは異なり、長い間無理を言って苦労をかけ続けてきた母親のために、札幌五輪にはどうしても出場したいと願っていた。結果は16位、満足のゆく滑りはできた。

札幌から1カ月後、樋口はカナダで開催された世界選手権を最後の舞台として、現役を引退する。未練はなく、自分の中のすべてを出し尽くし、やるべきことをやるべきときにやれるだけやったという確信があった。

世界選手権の後しばらくの間、樋口はほぼなにもしない毎日を過ごした。現役引退後なにをするか? そんなことは、現役を引退するそのときまで真剣に考えたことはなかった。スチュワードにでもなろうかな、と思った時期もある。しかしそのアイデアは、知人の中国人スチュワードにあっさり否定された。ノー! ユタカ、きみはスケートから離れるべきじゃないよ。

自分にフィギュアスケートの才能がさほど備わっていたとは思わないし、他人と激しく競い合うことも、それほど好きではなかった。しかし、小学校4年生のとき、あの後楽園のアイスパレスで感じた魔法の感覚を信じたのは100%正しかったと思える。そこは確かに、樋口の生きてゆくべき世界だった。

引退からほぼ1年後、あまり深い考えもなくスケートを始めたときと同じように、樋口豊はフィギュアスケートの指導者として、第2の人生を再び氷の上で滑り始めることに決めた。コーチとしての最初の職場は、あの後楽園のアイスパレスだった。


日本と世界を結ぶ架け橋として

2013年9月、樋口豊は63歳になった。

気がつけば人にスケートを教えることを選択してから、もう40年が過ぎたことになる。40年、その長い時間の中で、日本のフィギュアスケートは大きな変貌を遂げてきた。まさかここまでの人気スポーツになるとは、樋口がスケートを始めた頃には想像もできなかった。

日本のフィギュアスケートが大きく動いたのは、やはり1998年の長野五輪がきっかけだっただろうか。

安藤美姫選手の指導に当たったキャロル・ハイス・ジェンキンス氏と(写真提供:樋口豊)

1990年代前半から、冬季五輪の自国開催に向け、日本スケート連盟強化部は様々な強化策を練っていた。その中のひとつに、選手たちを海外で練習させる、あるいは選手たちと海外の一流の指導者、あるいはコリオグラファーを結びつける、というものがあった。

日本的な指導すべてが間違っているわけではない、しかしそれだけではどうしても勝ちきれない。頭ではわかっているものの、なかなか決めきれなかった「開国」を、26年ぶりの日本国内での五輪開催を控えた日本フィギュアスケート界は、ある意味で決断せざるを得ない状況に置かれた。

「開国」。その大きな潮流の変化の中、樋口豊は日本と世界をつなぐ橋として、大きな役割を演じた。彼にはトロントを始めとする様々な土地で培った豊富な人脈があった。自分には勝つぞという意欲が足りなかった分、誰もが仲良くしてくれたのかもね、と自身は冗談めかすが、樋口には人から好かれる天性の朗らかさがあるのだろう。

彼が選手と指導者の間に入ると、気難しいと噂される一流コーチたちも首を縦にふってくれた。そしてその樋口豊という橋を伝って、本田武史、伊藤みどり、村主章枝、安藤美姫、宮本賢二といったトップスケーターたちがさらなる高みへと上っていった。

<次のページへ続く>



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