第8回 YMFSスポーツ・チャレンジャーズ・ミーティング

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特別講演

日時 3月15日(日) 13:00〜14:30
講演者 田中 正人
チームイーストウインド 代表
アドベンチャーレーサー
YMFSスポーツチャレンジ助成 第1期生
田中 陽希
チームイーストウインド メンバー
アドベンチャーレーサー
日本百名山一筆書き 達成
演題 アドベンチャーレースへのあくなき挑戦
講演概要 あらゆる自然を舞台に、人間の体力、知力、精神力を駆使し男女混成のチームが協力してゴールを目指すアドベンチャーレース。この世界に20年以上挑み続けるチームイーストウインドの代表であり日本の第一人者である田中正人さんが、マイナースポーツに挑戦し続ける意義を熱く語ります。チーム活動を維持する苦労経験から得たこととは? また昨年「グレートトラバース・日本百名山一筆書き」と題した7,800kmに渡る偉業を達成したチームメンバーの田中陽希さんを交えて、撮影をサポートした田中正人さんとともに放送では伝え切れない208日間のドラマとその裏側のお話、さらには挑戦した理由、その後の展望などを伝えます。

演題:アドベンチャーレースへのあくなき挑戦

「体験したことを、社会にアウトプットする。それは本当に大切なこと」
― 田中正人

皆さん、こんにちは。チームイーストウインドの田中正人と申します。じつは私、YMFSスポーツチャレンジ助成の第1期生でもありまして、ヤマハ発動機スポーツ振興財団にはいろいろお世話になりました。今日はチームのメンバー田中陽希と一緒に、アドベンチャーレースというものを紹介させていただきながら、皆さんの活動のヒントになるようなことを残せたらいいなと思っております。よろしくお願いします。

アドベンチャーレースはマイナーなスポーツなので、よく知らないという方もいらっしゃるかと思います。ですからまずレースの紹介をさせていただき、それに取り組んでいる自分たちの活動についてもお話しさせていただきます。

私がアドベンチャーレースを始めて今年で21年目。47歳です。アスリートとしてはどうなのかという年齢ですが、飽くなき挑戦をいまだに続けています。

アドベンチャーレースは、大自然の中で行われるレースです。チーム制のアウトドアスポーツの複合競技です。そういう意味ではトライアスロンに近いかもしれません。ここまでは泳いでください、次は自転車、次はランニングというような形で、一つのレースにさまざまなアウトドアスポーツが盛り込まれています。ただ、アウトドアスポーツですので、トレッキングやマウンテンバイク、川や海ではカヤック、岩山があったらロープを使って登ったりします。海外の本格的なレースはだいたい4人1チームで、リレー形式ではなく、最初から最後まで常に一緒に行動します。1人でも脱落するとチーム全体が失格になります。さらに男女混成というルールがあって、必ず女性が入っていなければいけません。

レースはオリエンテーリング形式、地図に書かれたチェックポイントを通過しながらゴールを目指します。チェックポイントとチェックポイントの間は、自分たちでルートを決めます。ですからチームによって、通るルートがずいぶん違うことなります。

また、非常に長距離のレースでもあります。海外の国際レースの標準的な距離が約800キロ。長いものでは1000キロというレースもありましたが、だいたい1週間から10日間ぐらいの競技期間で行われます。夜間もノンストップで、一度スタートしたら800キロ先のゴールまで時計は止まりません。ですから寝る時間を削って夜間も行動して、先に突き進みます。睡眠時間はできるだけ削ったほうがいいし、でも、削り過ぎるとパフォーマンスが落ちてしまうので、そのぎりぎりのところを狙っていきます。海外のトップチームですと、睡眠時間は1日平均約3時間。それで1週間から10日間を突き進むわけです。

睡魔というのは、一番つらい。1週間も歩いていると手足がぼろぼろになるのですが、痛みは自分でコントロールして感覚から切り離せるので大きな問題ではありません。ただ眠気というのは地獄です。殺してくれと思うほどのつらさです。そういう状況に追い込まれる競技だと思ってください。

この競技が普通のスポーツとちょっと違うところは、競技者がイコールコンディションではないということかもしれません。あるチームは天気がいい、他のチームは荒れているということが頻繁に起こります。それも全部受け入れなければいけない。それから、主催者は安全管理をしてくれません。レース中はすべて自己責任。たとえばシーカヤックで荒れた海に出るとき、行くか行かないかはチームの判断です。主催者は判断をしません。

「対自然」「対人」「対自分」――。これが私の考えるアドベンチャーレースのキーワードです。この三つには共通点があって、どれも自分ではコントロールできないものです。たとえば、だいたい3〜4日目ぐらいに睡眠不足や疲労のピークがきて、誰もが1回極限状態に陥ります。そうなると人間はエゴが出ます。人をいたわる気持ちやチームワークを考える余裕がなくなって喧嘩が起き、チームの中にドラマが誕生します。そうした中で人をコントロールしようとか、俺の言うことを聞かせようとか、そんなことはできません。自分も同じように、自分自身を客観的に見ることができなくなっているからです。こんなふうに、自分でコントロールできないものと対峙していくのがアドベンチャーレースです。喧嘩別れしてメンバーと離れれば、それはルール違反。逃げ場はありません。

こうした状況で大切になってくるのは、自己責任感と、謙虚さや素直さです。他人に責任を求めて不平不満を言うとか、怒りをぶつけるとか、それは自己責任感のない状態です。自己責任がないとチームはガタガタになるし、自分の命を自分で守れなくなります。謙虚さや素直さというのも大切です。自然に対して驕り、厳しいトレーニングをしてきたのだから荒れても平気と思ったら、必ず痛い目に遭います。

人にしても自然にしても、相手と戦うのではなく、また自分の意見を押し通すのではなく、相手を受け入れ、自分の悪いところは素直に受け止めていくという、謙虚さと素直さがないとチームは成り立たなくなってしまいます。アドベンチャーレースにはそういう環境が設定されています。

私たちチームイーストウインドは、1996年に結成しました。活動の拠点は群馬県のみなかみ町です。水上温泉のある、谷川岳、利根川の源流といった、非常に自然豊かな場所です。同じ時期にこの町でラフティングのツアー会社も立ち上げまして、リバーガイドや山岳ガイドをやり、みんなで共同生活しながらトレーニングを積んでいます。

以来、多くの海外レースに出てきました。海外のアドベンチャーレースはお金がかかります。装備代、渡航費、そして滞在費。それらを合わせると1レースで600〜700万円ぐらい必要です。もちろんスポンサーの獲得活動もしましたが、アドベンチャーレースが知られていない時代に、企業に協力をいただくのはほんとうに厳しいものでした。

いまでは、チームの目的と、チームのポリシーを明確にしました。チームの目的は「アドベンチャーレースを通して自己成長を目指す」こと。メンバーの一人ひとりが自己実現を達成して社会に貢献できるようになる。そして、「アドベンチャーレースを通して日本を元気にしたい」というところがチームの目標です。当初は世界大会で優勝することを目的としていましたが、20年近くやってきて考え方がずいぶん変わってきました。今では世界大会での優勝は目的ではなく、目標です。

また、チームのポリシーは、「世界大会で優勝することを最優先目標として活動する。そのために妥協のないレース活動を実践する。メンバーは自分に厳しく、他人にも厳しく」。全力でレースに取り組む姿勢が人々に感動を与え、アドベンチャーレースの本質を広く伝える行動であると信じていますから、とにかく真剣にやる。さらに、いつかはアドベンチャーレースを通じて日本を元気にしたいという願いがあります。

世界のトップに立つチームというのは、同じメンバーで5年、10年と続けています。ところが我われの場合、途中で抜ける人が出てしまいます。そうすると、また振り出しに戻ります。アドベンチャーレースは多種目なので、トレーニングもいろいろしなければなりません。川下り一つとってみても、早い人で2年、遅い人だと3年かかります。それでもたった一つの種目だけですので、人生を投げ打ってやっても、世界に通用する人材に育つには10年くらいかかります。陽希は8年目でほぼ完成の域に達しているのですが、それでもまだやっていない種目もあるんです。

メンバーの生活を安定させ、固定化するというのは常に大きな課題です。方向性としては、先ほど話したようにアウトドアガイドやリバーガイド、山岳ガイドなど、トレーニングを兼ねてそれを収入にするということを行っています。それからトレイルランニングの講習会を開いたり、アドベンチャーレースのトレーニングキャンプを企画したり。あとは、国内大会の企画・運営。大会の運営は、利益というよりも我われの責任・使命と考えて取り組んでいます。

世界のトップを目指して取り組む中で得たものを、社会にアウトプットすることは非常に大切だと思うんです。アウトプットすることで、「こんなにすごいことを一生懸命やっている人がいる。感激した。俺も明日から仕事で頑張ろう」という影響を与えることができる。それを繰り返すことで、応援してくれる人が生まれたり、スポンサー活動やメディア活動もうまく回っていくと思うんです。

じつは、スポンサーに資金提供をしていただくことに、私自身、罪悪感のようなものを持っていた時期がありました。人様が一生懸命働いてつくったお金で、自分は好きなことをさせてもらう。そこに罪悪感があったのです。何のために競技をやっているんだろうと考えるようになったきっかけです。考え抜いた結果は、そうした支援で自分たちは貴重な体験をさせてもらっている。その体験で得たことをアウトプットしていくんだということでした。それがチーム目的になったというわけです。

20年近くやり続けていま言えるのは、やり続けることの大切さです。なかなか結果が出なかったり、現状を打開できなくて右往左往するということが皆さんにもあると思います。そういったときに、やっぱりぶれてはいけない。つらいときほど、粘ってやり続けるというのが、信頼を得たり、本当の応援者ができることだと思っています。

そういった中で、この田中陽希は8年もチームの中核として頑張っています。その彼でさえ、レース活動をしながら、悩みを抱えてきました。それが今回の百名山のチャレンジにつながったというところで、ここから先は陽希にバトンタッチしたいと思います。


「一歩踏み出して、殻を破りたかった。成長して、可能性を広げたかった」
― 田中陽希

皆さん、こんにちは。いまキャプテンの田中からの紹介にもありましたが、私もアドベンチャーレーサーとして活動しています。昨年「日本百名山ひと筆書き」をすることで、NHKの番組に採り上げていただきました。今日はアドベンチャーレースの話、日本百名山の話をさせていただきます。よろしくお願いします。

まず、僕がどんな旅をしたのかということから説明させていただきます。僕の挑戦は、前人未到の挑戦でした。かつて、陸上を歩いて一筆書きをやった方はいらっしゃいます。北からスタートして、南の屋久島でゴールという、僕とは逆のコースでした。僕は南からスタートして北海道の利尻島まで行きました。なぜ、前人未到かと言いますと、ここに海が含まれているからです。二番煎じは嫌だということもありまして、海もやろうと。陸上と水上ではリスクがかなり違います。島と島を結んで海峡を横断しましたので、海の上では独りぼっち。そんなふうに陸海ともに人力でチャレンジさせていただきました。

日本には名前のある山が1万5000〜1万6000くらいあります。その中から50年ほど前、深田久弥さんという方が日本百名山を選びました。50年経った今でも、日本百名山は山を楽しむ人たちの目標です。僕は、歩いてすべての山を登頂しました。雨の日も、風の日も、雪の日も、どんな自然環境にも臆することなく突っ込んでいきました。かかった期間が208日と11時間。トータル7800キロです。スタートしたのが4月1日、そして10月26日に利尻島に到達しました。

その間、苦労もありました。しかし、テレビの反響が想像以上に大きく、旅先でたくさんの人たちと会うことができました。そうした中でいろいろな質問を受けるのですが、一番多かったのが「なぜこの旅に挑戦したのですか?」というものでした。そのときは「やりたいと思ったから」とか「面白いと思ったから」と簡単に答えていたんですが、あらためて考えてみると「ひとりの人間としての成長」、ちょっと固い感じはするんですけれども、アドベンチャーレーサー田中陽希である前に、人間としてもう少し成長したい、自立したいという思いがありました。

もう一つ、現状の打開。冒頭で、アドベンチャーレースを続けていくうえで、悩みや葛藤があったという話をさせていただきました。今年で32歳。田中正人の後を追うように活動を続けてきたのですが、言ってみれば、日本のアドベンチャーレースというのは彼の世界なんです。僕は、その彼の世界で活動させてもらっている、ひとり。そこにいる限りは、それ以上の発展はないと思っていました。

どうすれば自分をもっと表現できて、もっと成長できるのかなと考えたときに、なにかふつふつと湧くものがあった。その状態のまま2〜3年過ごしたのですが、本当にひらめきのような感じで『百名山ひと筆書き』をやってみたいと思ったんですね。

僕は大学を卒業するまで、16年間クロスカントリースキー競技を続けてきました。その頃の経験や実績が、やめた後も自分の中にずっと残っていたんですね。それは、こだわりであったり、プライドだったり、とにかくずっと拭いきれなかった。変化をしないと成長できないというのは分かっていたのですが、その変化に一歩踏み出すことができなかった。もちろん小さな成長はあったのでしょうが、自分でもはっきり分かるほどの成長は得られなかった。だからこの旅によって自分の殻を打ち破りたいと考えました。成長すれば可能性が広がる。その流れを生み出したかった。

もう一つ、「なぜこんな大変なことを?」ということもよく聞かれました。「どうしてそんなに笑えるんですか?」「どうしてそんなに元気でいられるんですか?」というふうに。僕自身は、この旅に対して大きな価値があると思っていました。それが答えでした。

チャレンジャーの皆さんも、それぞれの競技に取り組むとき、自分がやっていることに価値を見いだしていると思うんです。たとえば世界選手権で金メダルを獲るということではなく、その先を見られるかどうか。その先を見たいという動機でチャレンジしたという点で、僕の中ではこの旅の価値が揺るぎないものになっていました。

旅の計画には2年かかりました。アドベンチャーレーサーとしての活動を続けながら少しずつ温めて、田中キャプテンをはじめいろいろな人に相談をしました。サポート、資金、装備など準備も必要です。ですからスタートするまでの2年間で、たくさんの人に接しました。テレビ局や、サポートしてくれる人々、それから応援してくれる人々。そういう人が増えれば増えるほど、緊張や不安、プレッシャー、責任、葛藤、苦しみがのしかかってきました。人を巻き込めば巻き込むほど、もう後戻りはできない。何かにチャレンジをするときには、必ずあることだと思います。

「やります」と言いました。でも実際にテレビが入ると決まったら、すごい重圧を感じました。たとえば天候が崩れているときに、僕が「山に入ります」と言ったら、撮影班はついてこなければいけない。自分以外の命も預かることに、ものすごいプレッシャーを感じました。その一方で、こうしたプレッシャーは旅を続けていく原動力の一つにもなりました。

こうして、いろいろな人を巻き込みながらスタートしたんですが、最初の頃、僕はただの旅人でした。でも、次第にテレビの反響が出てきて、行く先々にいろいろな方が駆けつけてくれました。熊本からわざわざ北海道まで会いに来てくれるような人もいました。そうした人たちが「元気をもらっています」「勇気をもらっています」「パワーをもらっています」と声を掛けてくれる。自分としては自分の好きなことをやらせていただいている、という気持ちだったんですが、それが結果的に人の心を動かしているということを感じてきて、自分の中で使命感が芽生えました。それがなければ、ゴールはできなかったんじゃないかというふうにも感じています。最後、僕の中では感極まって泣くかなと思っていたんですが、ゴールでは自然と笑顔になれました。

7800キロという距離を歩きましたが、僕にとっては人生の一歩。途方もない距離でしたが、長い人生の中のたった7か月間。でも、その一歩を踏んだことによって、この自信をこの先の挑戦につなげていきたいと思っています。ありがとうございました。


講演者

特別講演
プロフィール

田中 正人(たなか まさと)

1993年第1回日本山岳耐久レースで優勝し、それがイベントプロデューサーの目に留まり、レイドゴロワーズ・ボルネオ大会に間寛平チームとして出場。日本人初完走を果たす。以降、8年間勤めた会社を辞め、プロアドベンチャーレーサーに転向。数々の海外レースで実績を作り、国内第一人者となる。2007年、YMFSスポーツチャレンジ助成第1期生となる。現在、海外レースに出場する一方で、国内レースの開催及び講習会に携わる。近年のレース結果:2013年、コスタリカ アドベンチャーレース(DNF)、2012年・2013年、パタゴニアエクスペディションレース(共に2位)。


田中 陽希(たなか ようき)

全日本学生スキー選手権で数々の入賞を果たし、大学ではXCスキー部の主将を務めた。2007年、チームイーストウインドのトレーニング生となり、2008年4月にトレーニング生を卒業して正式メンバーとなる。以降、地道なトレーニングで実力をつけ、国内の様々な大会でトップに君臨する。2014年、陸上と海上の両方を人力のみで繋ぎ合わせた百名山一筆書きに挑戦。208日と11時間で7,800kmを踏破。