スポーツチャレンジ賞

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狩野美雪

デフバレーとの関わり。

久光製薬を辞したあと、狩野はデンマークで1年間プレーし、2011年3月に帰国する。日本は東日本大震災で未曾有の災害を被ったばかりだった。

その年の7月だった。狩野は大学時代のバレーボール部後輩で、デフバレーの日本代表女子チーム監督を務めていた今井起之から電話を受ける。代表の合宿、ちょっと一緒に見てもらえないかな。

デンマークから戻ってきて、現役を引退したばかり、まだ定職を持たなかった狩野は二つ返事で引き受けた。今井は当時末期のガンを患って入院していたが、合宿スタートの当日は一緒に車で行く手はずになっていた。

合宿は岐阜で行われる予定で、当時世田谷区に住んでいた狩野はまず今井の病院(埼玉にあった)まで迎えに向かった。途中で携帯電話が鳴った。主治医の先生が今無理すると次のアメリカへの遠征に帯同できなくなる、って言い始めたんだよ、と電話の向こうで今井が愚痴った。月末のアメリカ遠征に行きたいから、今回は悪いけど一人で合宿行ってくれないかな。

狩野はなんとなく嫌な予感はしたが、一人で岐阜に向かう以外に仕方なかった。

翌々日の早朝、今井は埼玉の病院で静かに息をひきとる。

狩野はその突然の知らせに困惑し、同時に自分の予感していたようになった感覚も抱いていた。その訃報に動じることなく、彼女は女子代表の合宿をスケジュール通りに終え、数日後、今井の霊前にそのことを報告する。

物事には時に不思議な流れがあり、その流れに巻き込まれてしまうと、人はその流れに従って生きてゆくしかない時もある。

狩野が正式にデフバレー女子日本代表監督の座を引き受けたのは、それから3ヶ月後だった。今井が亡くなってからしばらくの間、誰もが次は狩野がその職を引き継ぐものだと当たり前のように考えていた。

しかし狩野自身にとって、その判断はそう簡単には下せなかった。当時付き合っていた男性との結婚も考えていたし、デンマークでの最後の選手生活を終え、まだ自分がこれからどういう形でこのスポーツと関わってゆくのかその枠組みさえうまく思い描くことができなかった。

しかし同時に、今井が彼女に「あとは頼んだから」と残していった仕事を他の誰かがやることになるのも嫌だった。今井は狩野美雪という人間に“それ"を託したのだった。他の誰かに託したのではなかった。そのことは彼女自身が一番わかっていた。

2011年10月、狩野はデフバレー日本代表女子チーム監督に正式に就任し、静岡県内にある大学の体育館でそのキャリアをスタートした。

通常は月に一度、4年に一度のデフリンピックが始まる2ヶ月ほど前になると、合宿の頻度は毎週末となる。

デフバレーの練習を初めて見た時、正直なところ狩野の目には少しバレーボールができる程度の女の子たち、という風にしか映らなかった。しかし実際に選手たちを指導し始めると、そこには健聴者とは根本的に異なるいくつかの問題があることを認識した。

<次のページへ続く>



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