スポーツチャレンジ賞
バレーボール選手という人生。

狩野はキャプテンとして高2の3月、春高バレーで準優勝を果たす。
八王子実践から狩野が選択したのは大学進学の道だった。そのまま実業団に入ってやれるほどの実力はなかった。学芸大学を選んだのは、本人曰く、安くて近かった、からだ。教職を取り、保健体育の教師になるつもりだった。しかし4年間の大学生活が終わると、狩野は教師ではなくバレーボール選手としての人生を歩み始める。
2000年、狩野の選んだ新しいチームは茂原アルカス、日立製作所系列のチームだった。一応会社員として財務部に所属することにはなったが、勤務は午後3時までで、4時には体育館でトレーニングを始められる環境にあった。
しかしながら、入社2年目にして狩野を取り巻く環境は激変する。当時彼女が勤めていた工場は、ブラウン管の生産を担当していたが、時代の大きな流れに伴って、会社は非常事態宣言を出さねばならないほど危機に瀕していた。当然社会人スポーツはその濁流の影響を直接受けてしまう。
勤務時間は9時から5時の定時となり、そのぶん練習終了の時間は後倒しになっていった。練習量は減らせない。バレー部の女性たちが定時まで働いたところで、工場の置かれた危機的状況が劇的に改善するわけはなかったが、それが企業スポーツというものだった。
狩野個人としては、ユーティリティプレーヤーとしてチームの中心選手として活躍し、2004年には第10回のVリーグでサーブレシーブ賞を受賞している。しかし、経営母体の弱体化とシンクロするように、チームのパフォーマンスも思うように上がらず、存在もまた次第に危うくなっていった。
2005年12月下旬のある日、チームはそのシーズンの終了をもって活動を休止することを宣言する。狩野はその発表の少し前、前半戦の最後の試合でその厳しい現実を監督からすでに知らされていた。その日はまず試合前に、祖父の死を家族から知らされ、試合後には監督からチームの解散を知らされるという残酷な一日だった。
試合後、祖父の葬式に駆けつけ、葬儀の後に自分のチームが来季からなくなることを告げると、家族からは「それはご愁傷様です」と言われた。笑っていいのか、笑ってはいけないのか、なんとも対応し難い冗談だったことを今でもよく覚えている。
翌シーズン、狩野は茂原を辞し、神戸に本拠地を置く久光製薬スプリングスに移籍する。茂原を去るに当たっては、悩みに悩んだ。会社の状況が苦しい中で、彼女や彼女のチームメイトを支えてくれた人々は大勢いたし、たとえそこにバレーボール部がなくなったとしても愛着の情はそう簡単には消えなかった。
もし彼女の背中を押したものがあるとすれば、もうあと少しでバレーボールともお別れかも、という感覚だった。だったら、やりたいようにやろう。久光に行っても、レギュラーとしてはやっていけないのではないか、そう心配してくれる先輩もいた。しかし狩野は、それならばそれでも悪くない、と思えた。
しかしここから狩野は水を得た魚のように活躍を見せ始める。チームでは初年度からレギュラーとして活躍し、久光製薬は5年ぶりのリーグ優勝を果たす。どれだけうまい選手が揃っているのだろう、そう思っていた新チームで彼女が実感したのは、技術や体力ではなく、メンタルの部分での意識の違いだった。
ある先輩が口にしたセリフを狩野は今でも覚えている。
「茂原の時は、勝てないと思ってバレーをやってたでしょ?もったいなかったね。私たちは、勝って当たり前、負けたらたまたま。そう思ってやってるの」
狩野は都合4年間スプリングスでプレーし、2007年にはチームキャプテンも任されている。2008年には日本代表として北京オリンピックも経験できた。
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