スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

江黑直樹
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NAOKI EGURO
江黑直樹の足跡

ゴールボールのむこうにあるもの

国立福岡視力障害センターへの赴任

江黑は1年浪人をして日本体育大学に入学し、4年間真面目に勉強に取り組んだ。大学ではレクリエーション研究会というサークルに入り、夏や冬の休みには子どもたちや老人たちと一緒に過ごすアルバイトもやった。

しかし、江黑は埼玉県の教員採用試験に落ちてしまう。もう一度受けなおすことを考えなくもなかったが、最終的に彼が選んだのは、全国身体障害者総合福祉センター、戸山サンライズという施設への就職だった。

施設では研修係という部署に所属して、障害者スポーツ指導員の研修会や講習会の企画を専門家に依頼し、その手筈を整えた。障害者のスポーツ研修会に来るのは、日本を代表する各種スポーツのコーチや、視覚、聴覚、あるいは肢体のスペシャリストたちだった。全国の指導員たちとの人脈も自然と広がっていった。

戸山で働き始めて3年、江黑は講師の1人から、福岡の視力障害センターに体育講師の募集が出そうだからトライしてみたらどうだ、と勧められる。

研修係はやりがいのある仕事だったが、望んでいたスポーツ指導の機会が週に1、2度しかないことをすこし物足りなく感じていた江黑は迷わず試験を受け、合格し、福岡へと赴任することになった。その後福岡に16年も滞在することになるとは、想像すらしなかった。

1990年4月。江黑は福岡市の視力障害センターにやってきた。福岡市と言っても、センターのある場所は街の西端、すぐそばには小さな浜辺のある、のどかな海辺の村という趣だった。

赴任直後から江黑の担当する授業は始まった。ところが、資格は所持しているものの、江黑には視覚障害者の体育を実際に担当した経験がない。まったくの素人。当然そんなことは生徒たちにはすぐばれてしまった。

仕方がないので、前任者の残したカリキュラムを参考にしつつ、センターで学ぶ上級生の生徒たちに相談した。これはなに?ここはどうするの?中には新米指導員に厳しい眼差しを向ける人もいたが、生徒たちは概ね江黑に対して好意的だった。

落ち着いて指導できるようになったのは、1年が過ぎたあたりからだ。グランドソフトボールの他に、フロアバレーボール、卓球、いわゆる視覚障害者の3大球技と言われるものについてはルールも理解し、なんとか教えられるようになった。

江黑自身も目隠しをし、生徒たちとともにプレーした。そうしなければまったくイメージはわかないし、どう教えていいかもわからない。転がってくるボールをどう打つのか、ピッチャーはどうストライクを投げるのか、そんなことを考えながら、アイシェードをつけたまま長い時間を過ごした。

<次のページへ続く>



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