スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

HIDEKI ARAI × YOSHIHIRO NITTA

パラからもらった一番のプレゼント

YMFSそうやってお二人で長い時間をかけて築き上げたサクセスストーリーがある一方で、未だ解決できていない問題はありますか?

荒井これはパラスポーツ全体に言えると思いますが、やはり指導者の不足でしょうか。選手たちは障害者雇用の促進もあって、少しずつ環境は改善されつつあると思いますが、監督、コーチの立場にある人はなかなかそれを専業でやってゆくのが難しいですね。この問題の解決には、やはり実業団チームという形で資金力のある企業が障がい者スポーツのチームを創設していくのが一番いいと思うのですが、今回の東京2020パラリンピックを見ていても、そういう動きにはならなかったですね。

新田僕自身は、若い選手があまり出てこないな、という印象があります。ファンスポーツとしてのスキーならやるけれど、競技までは、という人が多い。荒井さんがおっしゃったように、指導者の数が少ないために競技者としてのキャリアを積んでいけない、という因果関係があるのかもしれません。あとは、トップアスリートだけにフォーカスするのではなく、もっと一般の障がい者の人たちが気軽に身体を動かせる環境があればいいな、と思います。運動をする人が増えれば、トップアスリートを応援する人の増加にも繋がると思いますし。

YMFSでは最後に、お二人に一1つずつ質問させてください。まず新田さんは、健常者として生きていく予定だったのに、荒井さんの登場によってパラの世界に導かれました。そんな新田さんがパラスポーツから得たものはなんでしょうか?

新田物の見方が変わったこと、ですかね。中学生の頃、僕は健常者の世界の一員として生きていたわけですが、それでもやっぱり左手を隠したいなって思っていた時期があるんです。でもパラの世界に来てからは、それも一つの自分の個性だって思えるようになりました。

YMFSでは荒井さんはどうでしょうか?

荒井以前は、障害を抱える人たちのことを、大変だな、かわいそうだな、という目で見ている自分がいました。でもパラと関わるようになってから、全くそんな風には思わなくなりましたね。選手たちは自分の限界を決めず、ひたすら挑戦し続けている。そんな姿を見ていると、あれ?障害って一体何なんだろう?それをもう一度自分で考えられるようになりました。人にはいつだって可能性があり、夢がある、ってことを知ることができた。それがパラからもらった一番のプレゼントだと思っています。

<了>

写真=近藤 篤 Photograph by Atsushi Kondo

インタビュアー

新田 佳浩

YOSHIHIRO NITTA

1980年6月8日、岡山県英田郡西粟倉村出身。株式会社日立ソリューションズ所属。3歳の時、農業用機械(コンバイン)で左手を切断するも、9歳からクロスカントリースキーをはじめ、15歳の時荒井監督にスカウトされ、98年長野パラリンピックに初出場。2002年ソルトレークパラリンピックで銅メダルを獲得。2010年バンクーバーパラリンピックでは、2種目で金メダルを獲得。2018年平昌パラリンピックでは金、銀メダルを獲得。(現在6大会連続出場中)

現在は、日本障害者スキー連盟の理事、そして日本パラリンピック委員会アスリート理事を行いながら北京出場を目指している。



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