スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

HIDEKI ARAI × YOSHIHIRO NITTA

楽しいことも、そうじゃないことも、二人三脚で

YMFSそこからお二人の二人三脚が始まったわけですね。

荒井新田君はまさに神様がプレゼントしてくれた宝物でした。彼がいたからこそ、パラスポーツの世界が達成できたことは数え切れないほどあります。2003年、彼は日本人として初めてIPCパラノルディックスキー世界選手権で金メダルをとったのですが、銀座のビルボード、あるいは新幹線の中の電光掲示で、新田佳浩、パラノルディックスキー世界選手権で金メダル、って速報が流れたんです。本当にインパクトのある出来事でしたね。

新田楽しいことも、そうじゃないことも、本当にたくさんありましたよね、笑。

荒井長野パラリンピックの翌年はきつかったですね。大会が始まるまではパラの専門誌なんかも3冊くらいあって、けっこう盛り上がっていたけど、1年後には全て閉刊。企業からのサポートもあっという間になくなった。

新田僕はその当時高校生でしたけど、子供心に、ここまでいきなり梯子外すのかよ、って思いましたもん、笑。荒井さんが頑張ってくれたおかげで、また幾つかサポートしてもらえる企業が見つかったものの、基本的に遠征費用は全部自分でなんとかしなきゃいけなかった。だから海外遠征とかは行きたくても行けませんでしたよね。

荒井スキーの世界は様々な大会に出場して、そこで残した成績で選手にランキングがついてゆくんです。そしてそのランキングをもとにパラリンピックでのスタート順が決まったりします。強い選手のグループで走るのか、弱い選手に囲まれて走るのか、結果は全く異なりますから。海外の大会に参加すらできない、これは非常に不利ですよ。

YMFSそれは苦しい時期だったですね。

荒井いや、それはそれで楽しかったです、笑。いろんな作戦を立てて、これまで知らなかったような企業に支援をお願いに行く。ほとんどの場合は、電話をかけた時点で断られるんですが、中には会ってくださる方もいます。そこで名刺をいただければ、もうこっちのものですから、笑。

YMFS新田さんは荒井さんがそういう活動をしていたことはご存知だったのですか?

新田知っているというか、僕もよく一緒にお伴していました、笑。知らない人と会うのはあまり得意ではなかったですけど、当時荒井さんが働いていた東京都江東区の深川スポーツセンターでトークショーをやったりもしていました。

荒井新田君にはいろいろと大変な思いをさせてしまいましたけど、名前を知られたアスリートがそばにいてくれると、相手の方も関心を持ってくれますから。やはりそこでも新田佳浩の存在は大きかったです。

<次のページへ続く>



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