スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

臼井二美男
FOCUS
FUMIO USUI
臼井二美男の足跡

失われたものを取り戻すために

スポーツ用義足とヘルスエンジェルス

仕事にもようやく慣れてきた5年目だった。ある日臼井は業界誌をパラパラとめくっている最中、アトランタでのパラリンピックで活躍するアメリカのパラリンピアンたちの写真を見る。

臼井は自分の周りを眺めてみた。彼の働くセンターには生活用義足の部品は揃っていたが、競技用の義足のための部品は皆無だった。臼井はさっそく自ら手を挙げ、研究のために丈夫な部品を仕入れ、試験的に義足を制作した。

センターには当時1,000人ほどの患者がいた。先輩に、走れる人がいるかどうか確認してみたが、誰もが口を揃えて、そういう患者さんはみたことがないな、と答えた。

なんとか自分の周りでも義足で走れる人を。手探りでスポーツ用の義足を開発しながら、臼井は活動を始めた。協力してくれたのは25歳の女性だった。彼女に自らが開発した義足をつけてもらい、走るトレーニングを繰り返した。足を切断して8年、走ることなどすっかりあきらめていた彼女は、ある日走れるようになったとき、ポロポロと涙を流して喜んだ。

交互に足を出して走れることがどのくらい一人の人間にとって大事な動作なのか。臼井はそれを理解したような気がした。そこから、また一人、もう一人、臼井の周りから走ろうとする人間が生まれていった。まずはちゃんと歩けるようになる、次に少しずつスピードを上げてゆく、足を弾ませる、ある瞬間、5歩走れるようになる。走れるようになった人間は新しい自信を身にまとい、さらに走れるようになろうとする。

しかし、臼井の職場で走ることを患者たちに勧めることには無理があった。通常リハビリセンターでは患者が歩行できるようになった時点でセンターでのリハビリは終了となる。走ることを教えることはない。走ることにはそれなりのリスクが伴うし、もし万が一のことがあればそれはセンターの責任問題となる。あるいは訴訟問題に発展するかもしれない。

ならば。1991年、臼井は数人の仲間とランニングクラブを結成する。いや、それはまだランニングクラブというほどの中身でも規模でもなかった。月に1回、集まり、正しくスムーズに足を動かし、歩くことを練習する。身体を動かすのがいやならば、寄り集まって話をし、交流する。臼井にとって大事だったのは、まず機会を提供し、場所を作り出すことだった。若くて、元気で、本人がやろうと思えばできそうな若者は何人もいた。

この集まりでもし何かが起きれば、それは臼井の責任問題に発展したかもしれない。しかし臼井にとって大事だったのは、彼自身のことではなく、障害を持つ人々が再び走れるようになることだった。

クラブの名前はヘルスエンジェルス。これはクラブ結成から10年ほど経ったとき、臼井がつけた名前だ。アメリカの伝説的なアウトローバイカー集団、ヘルズエンジェルス(hell's angels)をすこしもじってこんな名前をつけてみた。日本語で書くと同じ音に聞こえるが、英語の表記はHealth Angelsとなる。弱い身体を持った集まりなんだから、せめて名前だけは不良っぽくてもいいじゃないか。

臼井も含めて5人。それが第1回目の練習に参加したメンバーの数だった。翌月の練習ではさらに1人増え、翌々月の練習ではさらに2人増えてゆき、今では200人近い人々がクラブのメンバーとして活動するようになった。

活動開始から23年、ヘルスエンジェルスからは佐藤真海をはじめとする何人ものパラリンピアンが生まれ、彼女たち、彼たちの存在は、障害者スポーツに新たな光をもたらしてきた。

<次のページへ続く>



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