スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

臼井二美男
FOCUS
FUMIO USUI
臼井二美男の足跡

失われたものを取り戻すために

なにかを探し続けていた20代

日本義肢装具士界の第一人者、臼井二美男は1955年、群馬県前橋市の農家の次男として生まれ、小学、中学、高校時代を前橋で過ごした。中学時代は卓球部と美術部に所属し、本人曰く「中学まではよく勉強する優秀な」生徒だった。

高校は県内一の進学校へ進み、学校では空手部と応援団に所属した。市内の中心部にある高校は、彼にとって初めての街での生活だった。臼井少年の興味は勉強よりも仲間と過ごす時間、人と関わる時間へと移ってゆき、勉強はもう以前ほどはしなくなった。

大学は東京の私立大学の文学部へ進んだが、キャンパスライフには最初からうまく馴染めなかった。入学から2年と少しが過ぎたとき、臼井は大学を中退する。結局文学部での勉強に興味は持てなかったし、大学をやめることへの躊躇もなかったが、自分を大学までやってくれた両親への申し訳ない気持ちは心の中をさまよっていた。

大学を中退した臼井は、以前にも増してバイトに精を出すようになる。大学をやめた以上、もうこれからは親の仕送りに頼ってはいけない。しかし、働くことは全く嫌ではなかった。どんなことでも懸命に打ち込める、それは臼井に備わっていた才能だったのだろう。

あるいは、彼が中学のとき目の前でぼそりと祖父が口にした言葉が、その後の彼の働くことに対する姿勢を決定づけたのかもしれない。

農業ってのはすごくいいもんだ。自分が本当に耕した分がちゃんと返ってくる。

赤城山をバックにして、地味な農作業に懸命に打ち込む祖父の姿が、臼井にはとてもかっこよいものに見えた。

バーテン、音楽事務所、露天商(つまりテキ屋だ)、臼井はありとあらゆるバイト仕事をこなし、どの職場でも上司から高い評価を受けた。君、このままこの仕事を続けてみないか?店長にならないか?

しかし、どんな仕事をやっても臼井の心はなぜか満たされず、気がつくとまた次の仕事に就いていた。毎日午後2時頃になると、必ず胸の内をこんな思いがよぎっていった。オレはこんな仕事をしていていいんだろうか?

彼はまだ世界を知らず、この世界にある様々な仕事のことも知らなかった。田舎の両親は、銀行員や公務員になれ、といかにも田舎の人が言いそうな台詞をいつも口にしたが、それもまた臼井のイメージとは違っていた。

そんな20代後半のある日、臼井は大塚にあった職業安定所に寄った帰り道、その張り紙を目にし、小学時代のあの若い先生のことを思い出したのだった。

<次のページへ続く>



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