スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

越智貴雄

オリンピックを撮ってみたい

自分にもうまくやれることがあるんやな。

初めて応募した写真コンテストで佳作に入賞した作品 © 越智貴雄

「当時僕は大阪の藤井寺に住んでいて、その年の夏に仙台に住む叔父のところに電車を乗り継いで遊びに行ったんです。最終日に叔父夫婦が、山形県の月山に登山に連れて行ってくれました。登山といっても、初心者でも普通に登れるようなものです。途中、高山植物のニッコウキスゲの咲いている場所があって、叔母に「タカオちゃん、ちょっと撮ってみたら?」と言われて、何気にシャッターを押したんですよ。」

藤井寺に戻ると、越智はその写真をプリントし、ある印刷会社が主催するかなり大きな規模の写真コンテストに応募してみた。結果は佳作、少しばかりの賞金ももらえた。それまで特に何かで突出した結果を出したことのなかった高校1年生の少年にとって、その賞は「佳作」という言葉の響きの何倍も大きな成功体験となった。

自分にもうまくやれることがあるんやな。喜びと確信に満ちた越智はその後もさまざまなカメラ雑誌のフォトコンテストに参加し、いくつもの賞を獲得し、高校卒業後は日本画を描いていた母親の勧めもあり大阪芸術大学の写真学科へ進んだ。


オリンピックとパラリンピック

シドニーオペラハウス前で(写真提供:越智貴雄氏)

大阪芸大での3年目にあたる2000年、越智は大学を1年休学し、オーストラリアのシドニーに向かった。オリンピックを撮ってみたい、それが休学の理由だった。

オリンピック、あるいはスポーツの持つ力、魅力、そんなものを越智が意識するようになったのには二つのきっかけがある。

一つは1998年に冬季オリンピックが長野で開催されたこと、そしてもう一つは大学2年生の時に受講したゼミの教授が元新聞社のカメラマンだったことだ。

「オリンピックには世界を変える力があるんだよ」

教授が熱く語るそのセリフが頭のどこかでいつも聞こえていた。

シドニーオリンピックは9月15日から10月1日にかけて開催された。

その年の6月から8月にかけて、滞在費を稼ぐために一度日本に帰国していた越智は、50社以上の新聞社や雑誌社を回り、オリンピックの取材をさせてほしいと自らを売り込んでいた。大阪にある大手新聞社が彼のオファーに興味を示してくれ、シドニーに戻った越智は新聞社の臨時特派員というような立場でオリンピックを迎えることとなる。街の風景や人を撮り、同時に記事も書いて送った。

越智の仕事は新聞社に気に入られた。オリンピックが10月1日に終わると、新聞社の担当者からこんなオファーが届く。越智くん、そのまま残ってついでにパラの方も取材してくれへんか?

「正直それまで、パラリンピックとかパラスポーツとか、ほとんど意識したことはありませんでした。うちの母親が毎年24時間テレビの時期になると、大阪城ホールに募金を持って行っていた、そのくらいの接点です」

しかし越智はそのオファーを受けた。自分の力を認めてくれて仕事をオファーされたこと自体が嬉しかったし、オリンピックではあくまでも周辺取材、競技場の中には入れない立場だったが、パラリンピックでは競技場の中で競技そのものを撮影でき、プレスセンターの中にも入れる。ブース内に常備している新聞社の機材も自由に使っていいということだった。

<次のページへ続く>



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