スポーツチャレンジ賞


萩原この度は受賞おめでとうございます。
野口ありがとうございます。
萩原色々なところでお会いする機会はありますが、こうしてゆっくりお話しさせていただくのは、今回が初めてですね。私がシドニーオリンピックに出場していた時、野口先生がテレビで解説なさっていたのをよく覚えています。
野口ちょうど17年前、今のハギトモさんの年齢くらいでした。それより僕が覚えているのは1998年バンコクでのアジア大会、ハギトモさんが中村真衣さんに初めて勝った日です。大会後に僕たちがいた放送ブースにゲストで登場されたんだけど、私が「強かったねえ」って切り出しても「いえいえいえ」ってずいぶん謙遜していたのをよく覚えています。
萩原あの時は初めての勝利に舞い上がっていて、人前でどう振る舞っていいのかわからなかったんです、笑。その先生と今日こうしてお話しさせていただけるなんて、なんだか不思議な気分です。
野口確かに普段は私も解説者として「取材をする側」でしたからね。でも、ハギトモさんは普段からメディアに登場する機会も多いから、久しぶりって感じもしませんね。
萩原リオでのパラリンピック、本当にすごかったですね。私も応援させていただきました。
野口ありがとうございます。僕は大会中ツイッターをやっていたのですが「おお、萩原智子さんがリツイートしてくれたぞ」なんて盛り上がっていましたよ。リオでは本当にまさかまさかの繰り返しでしたけど。
萩原今回、ヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞奨励賞を受賞されました。健常者スポーツの世界で実績をお持ちの野口先生が、パラの世界でも結果を残したことがこうして評価されることで、何か新しい自信のようなものが生まれたのではないですか?
野口うーん、どうでしょうか。オリンピックとパラリンピックが一つの世界として語られるようになったとはいえ、今はまだ様々な面で現場は混乱しています。多分僕がやったことは、東京オリンピック・パラリンピックのもっと後に、一つの評価が下されると思うんです。オリとパラの両方に関わってそれぞれの仕事をこなす、それがいいのか悪いのかということは、現時点ではまだわからない部分が多い、それが僕の正直な印象です。
萩原確かに、現実的にはまだ多くの問題を解決してゆかなければなりませんし、理念だけが先走っている印象はありますね。
野口そんな状況の中では、僕たちがやってきたことはなかなか評価されにくい部分もあるでしょう。ただ、一つの大きな痕跡はリオで残したわけだから、ずっと後になってインターネットで誰かが検索した時、ああ2016年の時点で既にこんな活動をしていた人がいたんだな、となるのかもしれない。その時になって、正確な評価が下されるのかな。
萩原木村選手が日大に入学して野口先生の前に現れた時、彼を受け入れることに対して不安な部分はなかったのですか?
野口僕の方は正直、海のものか山のものか、全くわからないわけです。大学での授業はちゃんとやっていけるのか、まずそこを考えましたね。その年は、木村君ともう一人陸上の子(後にゴールボールでリオの日本代表となる天摩由貴さん)と、ブラインドの子が二人入学してきたんですが、僕よりもむしろ、大学の事務方が混乱したんじゃないでしょうか。例えば「体育実技」という科目があります。でも、彼らには普通の球技はできないですよね。でも二人とも盲学校で泳いだ経験はある、じゃあ僕の授業、水泳で単位を取ればいい、という具合に、一つ一つ解決していきました。
萩原何もかもが初めての体験、全てが手探りの状態だったわけですね。
野口とりあえず「やれることをやります」というスタンスでした。一つ言えるのは、彼らは仲間にすごく恵まれていたということです。例えば、サークルの飲み会があれば、最後までいて必ず木村君を送って行ってくれて、そのついでに彼の部屋に泊まって、ついでに掃除までして帰ってくれるヤツがいたとかね、笑。
萩原木村選手は、愛されるキャラですよね。放っておけない人間的な魅力があります。
野口それが彼のいい部分でもあり、そのせいでいろんな人に負担をかけていたりもします、笑。繰り返しになりますけれど、木村君は本当に周りの人間、友達、ゼミの教授、サークルの先輩、後輩、に支えられていました。彼が所属していたサークルに、当時たまたま優れた選手が揃っていたのも大きかったです。レベルの高い健常者の中で練習をするのは彼にとって初めての経験だったんですが、とてもタイミングよくそんな環境を手に入れられたんです。
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