スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

野口智博
FOCUS
TOMOHIRO NOGUCHI
野口智博の足跡

二人で歩んだメダルへの道

松江市立第二中学校中学、松江日大高校、そして日本大学へ。

島根大学付属小学校を卒業後、野口は松江市立第二中学校へ進学する。水泳のトレーニングを続けるには、宿題の多い大学附属校よりも、公立中学校の方が都合が良かった。

中2のときには1年間、愛知県にあったスイミングスクールに通うために、名古屋での寮生活も体験した。生活の中心には常に水泳があり、目の前の風景のその先にあるはずの、日の丸とオリンピックを見据えて生きていた。

中3で再び松江に戻り、高校は松江日大高校(現立正大学淞南高校)に進学した。当時その高校は入学者偏差値も比較的低く、県下でも名だたる「喧嘩っぱやい学校」として恐れられていた。しかし、当時インカレ総合優勝校で、五輪選手も多数輩出していた日本大学の水泳部に入るためには、その高校に入ることが、一流スイマーへの最短距離のように、野口には思えていた。成績優秀だった野口の決めた進路に、担任の教諭は激怒した。なぜ進学校を選択しないのか?教諭にとって、一人でも多くの生徒が偏差値の高い学校へ進むことは、最重要のことだった。

子供に選択の自由を認めない教育とは何事ですか、そう担任に言い返してくれたのは、自身も戦中に京都・峰山で教育者を務めた経験を持った母親だった。

高校に入学した年の秋、国体が島根県で開催される。野口は代表選手の一人としてその大会に参加し、大会初日、目標としていた表彰台こそ逃したものの、県勢のトップバッターとして、彼は少年男子B(高校1年生の部)400m自由形で5着に入賞した。

まだスイミングキャップは一般的でなく、大一番のレースに参加する若者たちは本番前に坊主頭にしていた頃だった。野口は「自分が切り込み隊長だから」と、選手団でただ1人だけ、頭をツルツルに剃り上げて大会に挑んだ。レースが午前の早い時間に行われたこともあり、やる気満々の彼の勇姿とその光る頭は、ローカルニュースで何度も流された。

当時の松江日大高校はいわゆる「猛者揃い」で有名な学校だったが、怖かった先輩たちの彼に対する態度は、国体を境に一変した。1人だけ頭を剃って出て行き、入賞を果たして学校の名誉を高めたことが、「侠気」を胸とする猛者揃いの先輩たちの心に響いたようだった。「おい野口、他校の生徒に嫌な思いさせられたら、いつでもワシに言ってこいや」

記録はトレーニングを積めば積むほど伸び、逃げ出したくなるほどのプレッシャーを全身で受け止めれば受け止めるほど、さらに伸びた。

県水連理事長としての仕事で多忙となった梶谷に代わり、野口たちエリート選手の指導にあたったのは須山治彦という名のコーチだった。近年、日本の水泳界では「高強度インターバルトレーニング」が流行っているが、その源流ともなる方法論を持っていた須山の指導は、当時の島根県の水泳指導者の中では群を抜いていた。

野口自身は、高校三年の6月に人生初のオリンピック(ロサンゼルス)選考会のファイナリストとなり、夏には秋田でのインターハイで400・1500m自由形の2種目を大会新で制した。いつの間にか、カナヅチだった少年は日本中の大学水泳部が欲しがる逸材となっていた。

いろいろな大学から声をかけてもらったが、高校が系列の学校だったこともあって、野口の中ではほぼ最初から進学先は決まっていた。

「当時の日本大学にはトップスイマーが集まっていたし、憧れの先輩もいました。自分もそこで競うことを求めていました」

東京での生活は、日大水泳部合宿所のある目黒区碑文谷で始まった。

激しいトレーニングに明け暮れながらも、週末になれば仲間たちと六本木に繰り出し、朝までハメを外すこともあった。インカレでの総合優勝、あるいは個人タイトル。(86年)ソウルアジア大会800mリレーでの金メダル獲得。(87年)ユニバーシアードザグレブ大会1500m自由形で、日本歴代2位の記録で8位に入賞。野口は中、長距離を主戦場とし、様々な栄光を体験し、同時にいくつかの挫折(例えば、86年マドリッド世界選手権選考会やソウル五輪選考会での敗退)も体験した。

「とにかく濃密な四年間でしたね。良くも悪くも、今の立場に立つ上で、本当に得難い経験ができました。でも、アスリートとしては、もうちょっとやりようがあったかな、とは思います。例えば、当時のトレーニングはかなり場当たり的で、今週どうする?とか、次の大会までどうする?と言う感じでした。トップパフォーマンスを発揮しなければならない大会があって、そこに向けて様々なプランを組み、戦略的なトレーニングを考えていく『デリバレート・プラクティス』といった概念は、当時まだ一般論として一般化されてはいませんでしたね。ましてや、『根性論全盛』の体育会組織です。競技にとって良いことも悪いことも、整理統合されないまま、とにかく良かろうが悪かろうが、寮生活でも遊びでもなんでも、先輩から言われたら何でもやれ…と。監督やコーチに言われたら、どんな無茶な練習だろうがやらされる、そんな感じでしたよ」

<次のページへ続く>



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