スポーツチャレンジ賞
早く習字の練習に戻りたかった
通うことになったのは、当時松江市内に一つだけあったスイミングスクール、島根スイミングクラブだった。
スクールの監督は、梶谷節夫という名の50過ぎの男性だった。肌だけでなく頭頂部の頭皮まで色黒で、痩躯、、真っ赤な競泳パンツを身につけ、片手に竹の棒を持ち、大声で怒鳴りながらプールサイドを動き回る、なんだかおっかなそうな人物だった。後に梶谷は、島根県水泳連盟理事長となり国体県代表監督を歴任し、野口をはじめ多くの全国レベルの選手強化に貢献する一方で、国内の都道府県水連で初めて島根県水連を「法人化」した、凄い功績を残す指導者となることなど、知る由もなかった。
四月上旬、野口少年はプールサイドに腰掛けさせられ、まずバタ足の練習から始めることとなった。水温は12度、まだ水は冷たかった。プールの中では選手クラスに所属する同年齢の子供達が、大きな水しぶきをあげながら滑らかに進んでいた。あんな風に泳げなくてもいいから、少しだけ泳げるようになって、早く習字の練習に戻りたかった。
しかしながら、スクールに通い始めたその日、野口の父親が誰なのかを知ったカジタニ監督は、彼にいきなり選手クラスの方で練習するように命じた。
野口の父親は高名なスイマーだった、わけではない。(と言うか、彼の父もカナヅチだった)彼は、松江市内では誰もが知っている有名な白バイ警官だった。身長は190センチ近くあり、その甲高い声は50メートル手前からはっきりと聞こえた。交通違反で野口の父に捕まった者は、その迫力になんの言い訳もできなくなった。たとえ職務時間外でもあろうとも、違反を犯す者がいれば、運転中の自家用車の窓を下ろして大声で怒鳴り倒す、そんな豪快な人物だった。
「父の世話になった方は多かったと思いますよ、笑」
カジタニ監督もそんな『世話になった』一人だった。そうか、お前はあの白バイ警官の息子なのか、じゃあ絶対に身体がデカくなるし、さぞかし立派なスイマーになるはずだ!
とにかく必死になって、腕と脚を動かした
スクールに入学して1ヶ月後、島根大学の敷地内にある50m屋外プールで行われたとある練習で、野口は監督からいきなり命じられた。クロールで50m泳いでみろ!
クロールなんてまだ一度も教えてもらったことはない。それどころか、一ヶ月前にようやく水に浮けるようになり、バタ足で5mほど進めるようになったばかりだ。
仕方ない。野口は大きく息を吸い込むと、壁を握っていた手を離し、前に向かって泳ぎ、いや、もがき始めた。どう息を継いでいいのかもわからなかった。
「呼吸が苦しくなってコース沿いの壁に手をつこうとするんですが、そのたび監督は竹の棒で私の手をパチーンと弾くんです」
とにかく必死になって、何度も腕を竹の棒で弾かれながら、腕と脚を動かした。するといつの間にか、野口少年の手ははるかかなたに見えていた50mプールのもう一方の壁をタッチしていた。
おお、やったじゃないかー!監督は愉快そうに笑った。野口少年は本気でこう思った。ばかやろー!僕を殺す気かよっ!
現代では「体罰」か「しごき」に他ならない行為ではあったが、結論から言うと、その時の梶谷監督の指導は120%正しかった。
数年後、野口智博という少年は、ピアノも書道も忘れ、島根県下でもトップスイマーの一人に育っていた。
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