スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

INTERVIEW
MASAHISA MONDEN × TOMOKO HAGIWARA

【対談】門田正久 × 萩原智子

障がい者スポーツトレーナーの道標として

特別な何かをしてやろう、とはさらさら思っていません

萩原私、トレーナーさんに身体を作ったり整えてもらったりすること以上に、心の部分でもかなり助けてもらっていたんです。競技をやっていくうえで、コーチにも、仲間にも、家族にも言えないことってやっぱりあるんですよね。それが、トレーナーさんに身体をほぐしてもらっていると、なぜかそういうことがポロポロ出てくるんです。不思議なんですよね。なぜかこの人に話したいっていう空間を作ってくれる人がプロだと、私は現役やめてから気づきました。体をリセットしてもらい、同時に心もリセットしてくれる、あの空間にもう一回戻りたいな、なんて気持ちになるくらいです。門田さんはどうですか?

門田特別な何かをしてやろう、とはさらさら思っていませんね。僕はできるサービスをします。マッサージをして、言っておかないとやらない子には、これやった? と確認する。仕事は淡々とやりますね。でも、ただ聞いているだけじゃなく、おかしいよ、って言う時もありますよ。特に国際大会になると、みんなどこかおかしいじゃないですか。今になって何を言いだすの?、みたいなことも起こります。舞い上がっている選手、勘違いしてる選手がいたら、意見するときもあります。

萩原確かにそうですね。いろんな人がいて、みんながみんな私みたいなタイプだけじゃないですよね。

門田国際大会は特にそうです。初めて来る選手と、3回来たことがある選手とでは精神状態も異なります。個人競技、チーム競技でもストレスの度合いは違ってきます。国際大会の本部トレーナーっていうのは、ある意味愚痴聞き屋みたいなところもあります。

萩原でも、トレーナーさんには言いたくなっちゃうんですよね(笑)。あれ、なんでしょうか?

門田わかんないです(笑)。実際、人に身体触らせるって、ものすごく特殊な状況ですよね。だからたぶんそこで、人間関係のハードルの高さも変わっているんだと思います。

萩原絶対的な信頼感がなければできないし、言えないですよね。

門田それはあると思います。まあでもね、しゃべりたいオーラが出てる時もあればね、こっちから話かけて、ああこいつしゃべるぞーっていう時もある(笑)。パラリンピックなんかになると、入村から退村までずっと一緒にいるわけですから。ベランダ出たらいたり、ダイニングで会ったり、何かにつけて空間を共にするじゃないですか。だから、目つきが変わってくるのもわかりますよ。で、だんだんと、こいつは今回は勝てないな、とかって感じるんです。

萩原すごいですね。やっぱりトレーナーさんっておもしろいですよ。

門田おもしろいですよ。たのしい稼業だと思います。こんなんでお金もらっていいのかなって思うときもありますから。

萩原楽しい、って言い切れるのがいいですよね。今一番心をとらわれてるテーマってありますか?

門田何が一番楽しいって聞かれたら、やっぱり高校1年生くらいのやつらとトレーニングしてるときが一番楽しいですね。中学校でブイブイいわしてたくせに、高1で高3に勝てないだろ、どうする?っていうような時が楽しいです、笑。あと、この仕事をしていて嬉しいのは、広島を出てったやつらが、帰ってきてくれるとき。うちのジムに顔を出してくれたり、ね。僕、高校生とか中学生が大好きなんですよ。

萩原わたしは笑顔が好きです。笑顔の普及活動をしたいって常々思っています。水泳の普及とともにやっているつもりですが、門田さんってすごく笑顔が素敵な方ですよね。笑顔が素敵な方って、絶対芯に強いものがあって。強さっていうのをすごく持っているから、余裕があるというか、いろんな人に優しくできる人のほうが多いと思うんです。

門田自分はただ笑っているだけですけどね。

萩原そう、それがいいんです。ただ笑っているだけ、ただやっているだけ、ただ手伝っているだけっていう、その自然体がいろんな人にとって魅力なんだろうなと思います。門田さんがただそこにいるだけで、私も頑張ろうって思いました。結局、トレーナーとアスリートってことですよね。(笑)。

門田僕に会って元気もらったっていったら、それでもう仕事終わってますからね。頑張りますって思えるようになってくれたら、こっちとしては大成功です。

<了>

写真=近藤 篤 Photograph by Atsushi Kondo

インタビュアー

萩原智子

TOMOKO HAGIWARA

(はぎわらともこ、1980年4月13日)中学3年生時に、海外遠征カナダ選手権200m背泳ぎで、当時、日本歴代2位となる日本中学新記録樹立。高校インターハイでは、200m背泳ぎで、3連覇達成。同年アジア競技大会では、個人、リレー種目で、3個の金メダルを獲得。2000年シドニー五輪、200m背泳ぎ4位、200m個人メドレー8位入賞。2002年日本選手権では、100m、200m自由形、200m背泳ぎ、200m個人メドレーで史上初の4冠達成。「ハギトモ」の愛称で親しまれ、2004年現役引退。5年の歳月を経て、2009年現役復帰宣言。復帰レースとなった新潟国民体育大会では大会新記録で優勝。翌年2010年には、30歳にして日本代表に返り咲いた。同年、ワールドカップ東京大会で50m自由形、100m個人メドレーで、短水路日本新記録を樹立。順調な仕上がりを見せていた矢先、五輪前年である2011年4月に、子宮内膜症・卵巣のう腫と診断され、手術。手術後は精力的にリハビリに励み、レース復帰。2012年2月のJAPAN OPENでは、50m自由形で短水路日本記録を樹立。4月に行われたロンドン五輪代表選考会ではレベルが上がってきた女子自由形で、堂々と決勝に残り、意地を見せた。2013年6月、日本水泳連盟理事に就任。現在はテレビ出演や水泳教室、講演活動など多岐に渡る活動を行っている。また、自ら現場に行って取材を行い、ライターとしても活躍中である。



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