スポーツチャレンジ賞
近藤篤 = 写真・文
Text&Photograph by Atsushi Kondo
第7回ヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞奨励賞は二人の名トレーナーが受賞した。
そのうちの一人、門田正久さんは、障がい者スポーツ界における幅広く、そしてエネルギッシュな活動、貢献を評価されての受賞である。
これまでの取材経験で言うと、この賞を受賞する方は皆さんずいぶんと多忙な日々を過ごされているが、門田さんも例外ではない。
所属する医療法人においては、理学療法士やトレーナーの育成に従事しつつ(もちろん現場トップとしてビジネス面での様々な雑事もある)、選手のコンディショニングにも直接的に関わり、各種レクチャーのインストラクター役もこなす。
さらに、パラリンピック強化委員として、各競技団体の選手強化策の案出や実施などに携わり、全国規模の障がい者スポーツアスレチックトレーナー制度を確立し、2020年を一つの到達点としてさらなる環境整備に尽力している。
身体が二つあっても足りないようなスケジュールだが、もちろん門田さんの肉体は一つしかない。
門田さんがパラの世界と深く関わるきっかけとなったのは、2000年にパリで行われた車いすテニスの世界大会に、日本代表チームの帯同トレーナーとして参加したことだった。彼はこの大会で、障がい者スポーツというものが単なる競技場でのスポーツにとどまらず、そこに至るまでの生活や文化が密接に影響することを理解する。
「例えば、選手がコートまで移動する時、彼らの腕は彼らの脚にもなります。もしそこに砂利や石畳があれば、彼らの腕は疲労しますよね。その疲れた腕で、彼らはテニスをプレーするわけです」
障がい者スポーツにとって、腕は時に脚にもなる。その事実を、プレーヤーのそばにいる人々がどのくらい理解できているかどうか。
門田さんに伺った様々なエピソードの中で、特に印象に残っているフレーズの一つである。
今回の取材では、ご自身が勤める広島市のスポーツ治療センター「ケアウイング曙」、京都府の城陽市で行われたゴールボール日本代表女子チームの強化合宿にお邪魔させてもらった。
インタビュー時の門田さんは、いつも笑顔を絶やさず、優しい口調で穏やかに話す人物だったが、いざトレーニングが始まると、その笑顔と口調は維持しつつも、眼の中の光は強く、厳しくなった。
トレーニング前には、選手達の怪我の状況を確認し、必要とあれば即座にテーピングを巻き直す。フィジカルトレーニングが始まれば、選手一人一人の動きに細心の注意を払い、アドバイスを与え、正しく(そして一番きつい)姿勢から逃げようとする選手の身体をこまめに調整してゆく。
ほらここを意識して。彼の指先が選手の背中の一部にそっと触れるだけで、トレーニングは数段きつく、そして最大限の効率を発揮し始める。トレーナーが一切手を抜かないから、選手たちも一切手を抜けない。
参加するための大会から、勝つための大会へ。パラリンピックの世界でも北京大会以降、流れは大きく変化してきた。
だから、トレーナーの存在意義も当然変わってくる。少し前までは、トレーナーはいた方がいい、だった。今では誰もが、いなければならない、いるのが当たり前、であることを理解している。しかし残念ながら、我が国の障がい者スポーツを取り巻く環境は、ハード面でもソフト面でも、まだまだ改善すべき点が多い。専属のトレーナーを持つ競技団体は全体のおよそ50%、残りの50%は門田さんのような一部の人々の頑張りと熱意に頼らざるをえないのが実情だ。
城陽市での取材から二ヶ月後。僕は東京の代々木で開催されたブラインドサッカーアジア選手権の会場にいた。この大会は来年リオで開催されるパラリンピックの最終予選も兼ねていた。大会三日目、日本対韓国戦終了後、僕は日本チームスタッフの中に門田さんの姿を発見した。
聞くと、大会直前にチームサイドから相談があり、急遽帯同トレーナーの役割を引き受けたのだそうだ。
試合が終わると翌朝の第一便で羽田から広島へ戻り、地元での仕事をこなす。その後、午後の便に乗って羽田までトンボ返りし、夕方からの試合に帯同する。6日続いた大会期間中、門田さんはそうやって毎日を過ごし、ブラインドサッカー日本代表チームをサポートした。
雨の日も、晴れの日も、勝っても、引き分けても、負けても。試合が終わったばかりの選手を会場の片隅のベンチに座らせ、その両脚を黙々とマッサージする門田さんの姿が、強く印象に残っている。
そういう地味で静かな仕事の積み重ねが、また翌日、翌々日の選手のパフォーマスにつながり、怪我の予防につながり、観衆の感動へと繋がってゆくのだ。
こういう人にこそ、奨励賞はふさわしい。
「今回賞をいただいて、実はこんな嬉しいことがあったんです」
今回の受賞に際して、門田さんにこんなエピソードを聞かせてもらった。
彼と共に第7回ヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞奨励賞を受賞したのは、サッカー界のカリスマトレーナー妻木充法さん。1979年からサッカー界で働く妻木さんの受賞には、現日本サッカー協会会長大仁邦彌氏をはじめ、数多くの関係者が集まった。
その中の一人、元古河電工サッカー部選手であり、日本代表の名センターバックでもあった清雲栄純氏から、授賞式の後、門田さんに連絡が入る。
「もしかして、あなた、あの門田さんの息子さんですか?」 門田と書いて、モンデンと読ませる苗字を持つ人はそう多くない。清雲氏は、もしかして、と思い至ったそうである。
「いやー、お父上には、生前本当にいろいろとお世話になったんです!」
門田さんの父親は、古河電工の社長室に勤務していた時期もある。彼は会社のサッカー部に所属する選手たちがプレーしやすいよう、公私において様々なサポート役を買って出る人物だったようだ。
「父は大正生まれの人間で、とても無口な人でした。一生のうちで交わした会話なんて全て足しても24時間以内です。父が僕に言ったセリフで覚えているのは、亡くなる少し前『お母さんをよろしく頼む』というものぐらいですから。だから、父が外の世界でどんな仕事をしていたのか、なんて知るすべもありませんでした」
すでに他界した父についての感謝の言葉を、もう一人の受賞者の関係者から聞かされる。門田さんにとっては、思いがけない(そして最高に嬉しい)副賞となった。
「スポーツチャレンジ賞」トップにもどる