スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

INTERVIEW
MASAHISA MONDEN × TOMOKO HAGIWARA

【対談】門田正久 × 萩原智子

障がい者スポーツトレーナーの道標として

障がい者スポーツが、普通のことになればいい

萩原以前、指導中の門田さんをお見かけしたことがありますが、たしかにすごく楽しそうに教えてらっしゃいました。

門田この仕事は大好きですよ。ただ、日本を背負って戦うのであれば、本当に仕事のできるトレーナーの人たちがしっかりと関わるべきです。その人たちがリーズナブルな対価を受け取れる仕組みができ、プロフェッショナル同士でやれることがお互いのスキルの向上につながってゆく。これからはスポーツ庁ができ、メディアがさらに関心を持ち、たくさんの人が集まってくるでしょう。あとは各競技団体が取捨選択する能力を養えばいいんです。僕自身がやりたいのは、トレーナー制度をしっかりと構築し、地区地区で、競技種目を問わず、ひとつの大会には必ずトレーナーを送り込むということです。2020年の東京までにそのシステムをしっかりと定着させておかないと、その後は予算が消えてしまうかもしれませんから。

萩原2020年の東京まで、東京に向けて、ってよく耳にしますが、私も、どういうふうにその後を続けていくか、何を残していくか、が重要だと思っているんです。今がチャンスですよね。パラは特に。

門田チャンスですし、ここを逃したら後はない。だから今そこにある予算は最大限に生かさなきゃならないんです。心ある人たちはいますからね。障がい者スポーツが大好きで支援していきたい、っていう人たちに、トレーナー制度を勉強してもらいたい。それこそスポーツ少年団くらいのレベルでいいから、特殊学校、特別支援学校の子供たちが、普通に体育を学べる、スポーツセンターに行ったら水泳を教えてくれる人がいる、この国にそういう世界があれば、と思うんです。

萩原私、中学三年生の時、日本代表の遠征でカナダのウィニペグへ行きました。長さは50m,水深は2mのプールでした。私たちが2コース分使って泳いでますよね、すると、お隣の数コースでは一般の方が泳いでいて、あとの3コースくらいだったと思いますが、パラの方たちが泳いでいました。日本では考えられない光景でしたね。そこにはすべての方たちがいました。プールの中には、エリート、一般人、障がい者、そしてプールサイドにはドクター、介護のヘルパー、トレーナー。片腕がない人が水から上がってきて、トレーナーさんに肩の調子を見てもらっているんです。ジュニアの私たちの遠征なんて、まだトレーナーもついていませんでしたからね。その時のことが今でもすごく印象に残っています。私、それまでに障がい者の方と一緒のプールで泳ぐってことすらも経験したことなかったですから。

門田それも、オリンピックサイズの本格的なプールで、ですもんね。

萩原ウィニペグは福祉の進んでいる街なのだと後から聞きました。これが日本だったら、危ないからと言われて、まず泳がせてもらえませんよね。でも、向こうではタイムを計測しながら、ごく普通に泳いでいる。考えてみれば、障がい者の方だから開放できません、って、実はそんなことないんです。だって、日本代表として日の丸背負って頑張ってる障がい者の方たちもたくさんいるわけですから。そういう人たちの練習場所も含めて、2020年に向けて、それ以降も継続して、すべての人が泳げるようなスポーツ施設を開放する、という動きになればいいですよね。そういう点で、日本はまだ遅れているな、と思います。私が中学3年生っていったら何年前ですか?

門田僕も2000年にテニスの国別対抗でパリ行った時、同じようなことを感じましたね。パリの街はバリアフリーとかまったくないんですが、車イスの人が砂利道を行ったり、周りの人がそれを普通に助けてあげたりしていました。テニスのカテゴリーも、シニア、マスター、ジュニアで、車イスも同じようにやっているんです。別に分ける必要がないのを、分けなきゃいけなくして。日本ではそれが長らく続いています。東京に五輪が来るってことで、障がい者スポーツが文化になり、普通のことになればいい、と僕は思うんです。スポーツの現場に限らず、飲み屋だろうがどこだろうが、電動車イスに乗った人間が普通に酔っぱらって電信柱にもたれて、みたいな。そういう環境の中で、できないところだけはできるやつがちょっと手伝ってあげる、っていう文化になってほしい。

萩原よくわかります、その感覚。

<次のページへ続く>



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