スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

藤原進一郎
FOCUS
SHINICHIRO FUJIWARA
藤原進一郎の足跡

すべての人にスポーツを

日本の障がい者のスポーツを常にリードし続けてきた

指導課長としては16年、さらに定年後の13年。藤原はこの日本初の障がい者専用スポーツ施設の発展を見守り続けてきた。

そして施設での活動とは別に、80年のオランダ、アーネムで開催されたパラリンピックで日本選手団コーチを務めたのち、翌81年には日本身体障がい者スポーツ協会技術委員会委員長に着任する。以後、ニューヨークでのパラリンピックを皮切りに、ソウル、バルセロナ、アトランタ、長野、そしてシドニーと、監督、総監督、あるいは団長を務め、国際大会におけるコーチ編成も彼が中心となって改善していった。

中森の言葉を借りれば、藤原進一郎という人物はすべての場面において日本の障がい者のスポーツをリードし、すべての基盤を整備してきた人、となる。

「やり遂げた感覚ですか?まあ、こんなもんかという感じでしょうかね。人間80歳を越えてしまえば、多少の妥協も必要でしょうし。たとえばこのあいだの授賞式、あれだけの人に集まってお祝いをしていただいている中で、あれもやり残した、これもやり残したとは、さすがに言えないですよ、笑。ただ、スポーツの指導法については、体育教師の経験のある私自身が、もう少しかかわって教えてあげていたら良かったな、と思うことはありますね」

教師時代、藤原は体育の授業を通じて、一生涯スポーツに親しめる素地を生徒一人一人に作ってあげたいと願っていた。生涯にわたって、動き続ける、やり続ける、そういう人が増えればいいなあ、と。
「そのためには、やっぱり仲間なんでしょう。仲間がいるってことは、続けることにとって必ずプラスになりますから」

藤原先生から学ばせていただいたこと

「スポーツセンター創設当初、当施設の考え方は、それまで患者さん、あるいは訓練生としてスポーツに取り組んでいた障がい者の方々には、とても新しく、斬新な考え方であったと思います。お客さん、あるいは一利用者として、スポーツを自らやる。そこには自主性が必要ですし、同時に自己責任も生まれます。
訓練は、やらされるもの、受身的なものかもしれませんが、スポーツセンターというのは自分の意思で行くものです。いつ行ってもいいわけですし、やるもやらないも自分の勝手、これは訓練とは全く異なるものです。やるとやらされているのは、全く違いますよね。
私は藤原先生と同じ職場で仕事をご一緒させていただいたことはありませんが、先生の姿をそばで拝見していて、いつも強く感じさせられることがあります。
パラリンピックに代表されるような、勝った負けたのスポーツももちろん大事です。しかしそれと同じくらい、これからスポーツをはじめたいな、という障がい者の方々へのアプローチもとても重要なものです。障害を持ち、それでもセンターに勇気を持ってやってくる方がいらっしゃいます。果たして自分はできるのかな、と。そこをうまく導いていければ、その人の人生はきっと変わっていく。そんなことを、私は先生から学ばせていただいたように思います」
(現大阪市長居障がい者スポーツセンター館長 三上真二)

<了>

写真・文

近藤篤

ATSUSHI KONDO

1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。



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