スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

藤原進一郎
FOCUS
SHINICHIRO FUJIWARA
藤原進一郎の足跡

すべての人にスポーツを

スポーツらしいスポーツができなかった少年時代

今春、ヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞功労賞を史上最年長で受賞した藤原進一郎は、1932年8月、岡山県邑久郡(現、岡山市)で生まれた。父は薬剤師、小さな薬屋をその町で経営していた。

特に語るべきこともない少年時代でしたよ、と藤原は笑う。

「勉強?しませんでしたねえ。元教師である私がこんなことを言うのもなんですが、勉強が好きだなんて、そういう子はなかなかいないんじゃないですかね」

1942年12月、太平洋戦争が開戦。藤原は戦争の最中、岡山県邑久郡幸島(尋常)小学校に通うこととなった。白米の中に大麦が混ざるようになり、その大麦が小麦と変わってゆく。身の回りからは少しずつ、これまで見慣れていたものが姿を消してゆき、空腹の時間は少しずつ長くなっていった。

とはいえ、都市部に比べれば邑久での生活が困窮を極めていたわけでもない。艦載機の空襲や夜間の灯火管制はあったものの、小学生の生活はある意味で長閑なものだった。風邪をひいて体調を崩せば、母がどこかから手に入れてくれたカステラを食べさせてもらえたし、中学生の頃は、誰かが買ったコッペパンを、三時間目の授業が終わる頃にみんなで争って食べ合う、そんなことを楽しんでいた。

「さすがにスポーツらしいスポーツはできませんでした。野球なんか、そもそもボール自体をほとんど見かけませんでしたからね。靴もなかったですが、私の母は手先が器用で、靴まで縫ってくれていました。その靴をなんだか自慢げに履いておった記憶があります」

藤原は脚の速い少年で、学業の成績はともかく、体育の授業や催しではいつも活躍していた。5年生の時に参加した邑久郡(現 瀬戸内市)の運動会で走った競走の事は今でもよく覚えている。
スタートして、最初に砂場を駆け抜けると、次は立棒をよじ登り、高い足場の上を怖々と歩く、そして最後のゴールは藁人形に竹槍をヤーっと突き刺した。

とにかく早く独り立ちしたかった

戦争が終わった1945年、藤原は隣町にある岡山県立西大寺中学に通っていた。旧制中学一年の夏、日本は焦土の中から復興への道を歩み始め、岡山県の片隅にも、少しずつ平和が戻ってきた。藤原は高校生になると仲間たちとともにようやく整備された町営グラウンドで陸上競技の練習に励んだ。

6年後、藤原は西大寺高等学校を卒業すると、すでに大阪で生活していた旧友のツテを頼り、当時日本橋一丁目にあった鼻緒屋に就職を決める。病気がちだった母のことを思うと、早く独り立ちしたかった。

「…なんて言ってしまうと、なんだか格好良すぎますね。本当のことを言えば、若い自分はとにかく大阪へ出て行って働きたかっただけかもしれません」

ところが、大阪へ立つ直前になって、藤原の計画は母親の知るところとなる。病気がちな母は、入院中の病院のベッドの上で息子の就職話を嘆き、涙した。私の病気のせいで…。

藤原は大阪行きを一旦諦め、岡山大学への進学を決める。別に体育の教師を目指していたわけではない。入りやすい学部、とにかく彼としては早く社会へと飛び出したかった。

<次のページへ続く>



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