スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

藤原進一郎
FOCUS
SHINICHIRO FUJIWARA
藤原進一郎の足跡

すべての人にスポーツを

体育教師として教鞭をとった日々

2年後、中学校保健体育科二級普通免許状、高等学校仮免許状、この二つの資格を携え、藤原は再び大阪へと旅立ってゆく。さすがに今回は、母親も何も言わず見送ってくれた。

「ところが、そのまま大阪で教師としてすぐに働けるんだと思っていたら、教員採用試験というのを受けなきゃいけないと聞いて、ちょっとびっくりしましたね」

新米体育教師として、二十歳の藤原が五歳年下の生徒たちの前に初めて立ったのは、大阪駅の北東、長柄橋の少し手前にある大阪市立豊崎中学校だった。
土地柄、やんちゃな子供の多いところだ。天王寺駅の構内で鳩の巣を取りに昇って騒ぎを起こしたり、他校の生徒たちと喧嘩をしたり、とかく毎日の話題には事欠かなかった。

「自慢にもなりませんが、隣の中学校の生徒たちがこちらまで押しかけてきて、彼らが退散するところを逆に追いかけて行ったら、いつの間にか一人きりになって周りを囲まれていた、なんてこともありました。でも、楽しくて、面白い学校でしたよ。他校との喧嘩はだいたい勝っていましたし、笑」

豊崎中学で7年教鞭をとったのち、藤原は大阪市立平野中学校へ赴任する。
この中学校は1966年に保健体育優秀校として日本学校体育研究会および文部省から表彰を受け、「体操学校」と呼ばれるほど体育の分野で実績を残してきた学校だった。市内の学校体育で中心的な存在の教師も在籍し、経験と研究に裏付けられた彼らの教えは、発展途上だった若い藤原には何よりもありがたかった。そして自身は陸上部の顧問として何人もの選手を育て上げ、大阪府内で総合優勝を果たした年もあった。

「平野中学の後、教員生活の最後の5年を過ごした大池中学時代も含めて、私はいつも立派な先輩教員のご指導を受け、仲間や後輩にも恵まれておりましたね」

障がい者のスポーツとの出会い

昭和49年5月2日、大阪市身体障がい者スポーツセンターのオープンと共に、藤原進一郎の新しい人生はスタートする。

身障者のスポーツと直接的な関わりを持つようになったのは、平野中学転勤からおよそ8年後の、昭和43年あたりのことだった。

その年、陸上競技協会の理事をしていた関係で、藤原は長居競技場の中にできていたトレーニングセンターのインストラクターを依頼される。

「長居競技場の場長は役所の人だったのですが、ある日彼から、大阪市が主宰する障がい者の競技会のルール集を整理してくれないか、と頼まれました。ざっと目を通してみると、さほど難しいものではありません。誰にでもわかるように整理して、審判をしてくれる市役所の陸上部に提出しました」

すると翌年、藤原はいつのまにかルールの専門家ということになり、今度は競技会の審判長をやってくれないかと、頼まれる。そこからは、練習会の手伝い、全国大会へのチームへの同行、藤原と障がい者スポーツの関わりはしだいに深くなってゆく。

全国大会のある代表者会議で、ルールブックの中に散見された幾つかの曖昧な表記を質問すると、後日、じゃあ君がこれを整理してくれたまえ、と日本身体障がい者スポーツ協会の常務理事から、今度は全国規模でのルールの整備を命じられた。

「そんなわけで、気がつくとすっかりこの世界に入り込んでいる感じですね。誰かがそれを引き受けなければならなかった。誰でもよかったわけではないでしょうが、たまたまそれが私だったのじゃないでしょうか。頼むと言われれば、引き受ける。まあ、教師というものが、そもそもそういう仕事ですよね」

<次のページへ続く>



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